ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

村田沙耶香『コンビニ人間』

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今期の芥川賞受賞作
 コンビニエンスストアの表情とそこで働く主人公の内面が詳細に描かれている。とにかくディテールがすごい。
 コンビニで大事なのは挨拶。いらっしゃいませ、おはようございます、ありがとうございましたと明るく大きな声で。
 次に商品の構成と展示。そのための仕入れ。朝の時間帯、昼の時間帯などと時間帯によって売れる商品が動く。朝ならおにぎり、サンドイッチといった具合。売れ筋をわかりやすく整然と並べることが肝要で、売れ筋を切らしてチャンスを失ってはいけないし、毎日の天候によっても変わるからその判断は売り上げに直結する。
 このコンビニで働いている店員古倉さんが主人公。駅前のコンビニがオープンと同時に店員となっていて、大学1年のときで、そのとき1998年5月1日を私は「コンビニ人間として生まれた」ときとしている。以来、18年間、在学中ばかりか卒業後も同じコンビニでアルバイトの店員として働いてきた。36歳になるが、この間、一度も結婚もしていない。
 恵子は子どもの頃から変わった子だった。自分の行動が理解されず、次第に無口になっていった。無口になればなったで心配され、「普通」の子になれず、両親からは「どうすれば『治る』のかしらね」と言われた。
 コンビニでアルバイトをするようになって、このときばかりは普通の子になったものと受け止められ両親からは安心された。「そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった」。
 ただ、大学を出てもまともな就職もせず、アルバイトのコンビニ店員のままでいると、両親は再びやきもきし出した。
 同級生と会っても、なぜまともな就職をしないのか、なぜ結婚しないのかと恵子は問われ、あきれられた。身体が弱いからという理由を使っていたのだったが、それも怪しまれるようになっていた。いつしか「あ、私、異物になっている。ぼんやりと私は思った」。
 コンビニ店員でいるときだけは恵子は自分自身でいられた。コンビニにおける人間関係は「こんなに複雑ではない。性別も年齢国籍も関係なく、同じ制服を身に付ければ全員が「店員」という均等な存在」だったのである。
 そんな折、かつて同じコンビニでアルバイトの店員をしていた白羽という男と同棲するようになる。ただ一緒に住んでいるというだけの契約なのだが、恵子が、古倉さんが男と同棲したと知るや、母親も妹も、同級生たちも喜んだし、コンビニの店員仲間も祝福してくれた。
  ただし、この同棲生活はまもなく破綻するが、その時叫んだ言葉が印象的だ。「いえ、誰に許されなくても、私はコンビニ店員なんです。人間の私には、ひょっとしたら白羽さんがいた方が都合がよくて、家族や友人も安心して、納得するかもしれない。でもコンビニ店員という動物である私にとっては、あなたはまったく必要ないんです」と。

 社会の規範、世間の常識は画一的なものなのか。みんなと同じでないと落ち着かないのか、許すことができないのか。私は自己疎外などに陥っていないのに、私は自分の思うように生きたいだけなのに。このように語っているようで同意できた。

 面白い。読み進むに滑らか。文章がいいからだろう。ユーモアもあるし、飽きさせない。様々なテーマが内包されているが、それを声高には主張しない。それでも、日常生活で誰しもが浅くなら思っていることではあるが、それを深く考えさせる余韻を持っている。秀逸な小説である。
(「文藝春秋」9月号所収)