ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

津軽海峡を照らす龍飛埼灯台

日本海峡紀行

(写真1 津軽海峡の西の入口を照らす龍飛埼灯台)

白神岬と対置し海峡入口を守る

 海峡に灯台はなくてはならないものだが、津軽海峡が演歌の似合う海峡というなら、龍飛崎は荒々しくも何と詩的な響きか。
 岬は概して風の強いものだが、龍飛崎の風の強さは第一級だ。襟裳岬と双璧ではないか。好きな岬だし何度も訪れているが、風の弱かったことは一度しかなかった。真冬のこと、深い雪を想定して長靴を履いていったのだが、灯台付近には積雪が見当たらなかった。あまりに風が強くて雪は積もれないのだという。なるほど、強い風で男の大人の私が吹き飛ばされそうになり、這うように歩いたものだった。
 このたびも風は強くて、突端付近では身体が揺らぎ、バランスを崩さないか、カメラを持つ手が定まらないほどだった。
 龍飛崎は津軽半島の北端。青森から津軽線で終点三厩。駅前からは外ヶ浜町営のバスが出ている。青森-三厩間が約1時間20分、三厩からは約30分のところ。バスは、標高約100メートルの丘の上、灯台付近まで運んでくれる。

(写真2 〝階段国道の降り口〟)

 ただ、これは余計なお世話みたいなもので、麓の龍飛漁港から階段を登ったほうが風情があって断然いい。この階段が〝階段国道〟と呼ばれなんと国道なのだ。役人が、ろくに現地を見ずに、国道の指定をしてしまったものらしい。
 ともあれ龍飛埼灯台。ややずんぐりしているが白色塔形の大型灯台である。対岸の白神岬灯台と対置し津軽海峡の西の入口を睨んでいる。日本海から函館や青森に寄り太平洋に抜ける重要航路である。

(写真3 龍飛崎から津軽海峡を眼下に望む)

 龍飛崎の突端に立つと、津軽海峡が眼下に大きく広がる。白神岬はもとより大間崎までもが望めるようだ。運がよければ日本海に浮かぶ大島、小島の二つの島が見えるはずだ。突端には、防衛省のレーダー設備がある。防衛上も重要な位置なのであろう。

(写真4 龍飛崎の突端にある防衛省のレーダー設備)

 この津軽海峡の不思議さは、ここは明らかに日本の領海のはずなのに、本来12海里とすべき領海がわずか3海里にとどめられていることだろう。大半が公海の位置づけなのである。どのようないきさつがあったものか、密約があったものか、わからないが、公海ならば核を搭載した艦船も、外国の艦隊も自由に航行できることとなり、これはわが国防衛上ないがしろにできないのではないか。
 このことと関係があるかどうかわからないが、龍飛埼灯台そのものは突端の防衛施設よりもやや左後方に建っている。日本海と津軽海峡の境目よりやや日本海側に灯光が向いているように思える。

(写真5 龍飛埼灯台の初点銘板)

 灯台に貼り付けられている龍飛埼灯台の初点銘板によると、龍飛埼灯台の初点は1932年(昭和7年)7月1日とある。意外に新しいのだ。
 それにしても、龍飛埼灯台は高い断崖絶壁にあるからまるで劈頭に立つ爽快感がある。これこそが岬の魅力である。両手を広げて飛び込みたくなる誘惑に駆られるが、幸か不幸かこれまでは一度もそういうことにはならなかった。龍飛崎で両手を広げて飛び込みたくなるのは、風の強いことにもよるのだろう。
 龍飛崎の麓は小さな龍飛漁港である。はずれに食堂があって、いつの年だったか、帰りのバスを待つ時間、ここで休憩したことがある。ビールとウニを頼んだところ、ウニはなんと生きたままの殻付きのものが大ぶりのどんぶりに一杯も出てきたのにはうれしくも仰天したものだった。

(写真6 名作『津軽』を書いた太宰治の文学碑)

 また、ここは太宰治が『津軽』で本州の行き止まりと書いた場所で、太宰の文学碑が建っている。((2022年10月11日)
<龍飛埼灯台メモ>(「灯台表」等から引用)
 航路標識番号1501(国際番号M6662)
 名称/龍飛埼灯台
 所在地/青森県東津軽郡外ヶ浜町字三厩龍浜
 位置/北緯41度15分30秒 東経140度20分33秒
 塗色・構造/白色塔形コンクリート造
 レンズ/第3等大型フレネル式
 灯質/群閃白光毎20秒に2閃光
 実効光度/47万カンデラ
 光達距離/23.5海里(約44キロ)
 塔高/14メートル
 灯火標高/119メートル
 初点灯/1932年7月1日
 歴史/1998年メタルハライド化
 管理事務所/第二管区海上保安本部青森海上保安部

津軽海峡を渡る

日本海峡紀行

(写真1 青函航路を渡るフェリーからみた津軽海峡)

青函航路で函館へ

 津軽海峡ほど演歌の似合う海峡もないのではないか。風の強さか、北へ渡るという心情か、寂しさがつのり、心して渡らなければならい覚悟がいるようだ。
 津軽海峡とは、本州北端と北海道南端との間にあって、日本海と太平洋とを結ぶ海上交通路である。
 海峡の長さは、東西に約130キロ、海峡幅は、最も狭いのは海峡の東側に位置する亀田半島汐首岬と下北半島大間崎との間で約18.7キロ。二つの岬どちらからも対岸のように望むことができる。これに対し、海峡西側の松前半島白神岬と津軽半島龍飛崎の間が19.5キロ。この海峡西側に鉄道専用の青函トンネルが通じており、鉄道で直接結ばれている。わずかの差だが直線距離で長い海峡西側にトンネルが掘られることになったのは、海峡の水深が西側の方が浅かったためとされている。
 かつては、鉄道連絡船である青函連絡船が本州と北海道を結んでいた。しかし、1988年(昭和63年)青函トンネル(全長53.89キロ)の開通により、青函連絡船は廃止となった。
 かつて、一度だけだがこの青函連絡船に乗ったことがあり、青森から函館まで約4時間を要したと記憶している。しかし、この4時間の間ずうっとデッキで海を飽かず眺めていたものだった。旅情がつのったものであろう。
 鉄道連絡船は廃止されたが、現在もこの青函航路にはフェリーが就航している。「青函フェリー」と「津軽海峡フェリー」の2社が運航しており、どちらも1日8便ほど両社合わせて16便もの運航があり、青函航路は現在も重要な航路なのだ。
 海峡は船で渡りたいもの。いかに鉄道ファンといえどもトンネルで横断したのでは風情がそがれるというもの。

(写真2 津軽海峡フェリーの青森港ターミナル)

 青森港から津軽海峡フェリー。ターミナルはかつての連絡船桟橋とは離れており、青森駅からタクシーで5分ほど。乗船手続きは出航40分前までに済ませなければならない。ターミナルから岸壁まではバスで運ばれた。乗る船によって変わるようだが、ターミナルから直接ボーディングブリッジで乗船するのではなく、地上から徒歩で乗船する便だった。たくさんのトラックや乗用車が船腹に吸い込まれるように運ばれた。私のように徒歩で乗船する客は少ないようでわずか数十人だったか。

(写真3 函館港に到着した津軽海峡フェリーブルーハピネス)

 乗った船はブルーハピネス。全長約144メートル、総トン数8,850トンという大きな船。旅客定員数583名、積載台数はトラック71台(乗用車230台)とある。かつての青函連絡船だった「八甲田丸」が総トン数5,382トンだったから現在のカーフェリーの大きさがわかろうというもの。

(写真4 カーペット敷きのスタンダードルーム。横になっている人もいる)

 船体は、1階が車両甲板で、客室は2階3階の2層になっていて、下層階にはスタンダードルームがあって、カーペットが敷いてある大きな部屋。横になっている人もいる。この階にはシャワールームや売店など様々なサービスカウンターもあった。上層階はコンフォートやスイートルームのようだった。私は料金の最も安いスタンダードにしたから、廊下に置かれたテーブル席に陣取っていた。大変残念なことだが、この日は風が強く、デッキへ出ることが許されなかったのだった。
 7時40分出航。滑るように動き出していて岸壁を離れたことにも気がつかなかった。すれ違う景色が遠いからスピード感が感じられない。眼下の海上を眺めていると、蹴散らす波でかろうじて速さがわかった。海上ではおびただしいほどの船舶が沖待ちをしている。すれ違うのはフェリーが目立つようだった。
 青森港から函館港への航路は、しばらく大きな陸奥湾を横切っていくので左窓に津軽半島を眺めながら並行するように北上していく。

(写真5 左窓津軽半島に遠望できた平舘灯台)

 カニの爪のようにも見える下北半島と津軽半島の最も狭い部分は平舘海峡と呼ばれるが、この津軽半島の平舘灯台にさしかかったら8時47分で、海峡に出て龍飛崎が遠望できるようになったらもう9時を過ぎていた。時間としては航路の半分ということか。青森港-函館港の青函航路上の距離は約113キロらしいから、陸奥湾を横切るのに50キロも要したことになる。そうすると、湾奥こんな遠くになぜ港を設けたものかという疑問が湧く。もっとも、北海道に近い大間崎も龍飛崎も陸路なら青森から1時間も2時間もかかるから容易ではない。鉄道は敷かれていないし。

(写真6 林立する巨大なクレーンが見えてくれば函館港入港はもう間近だ)

 海峡を横断していくと、やがて北海道の島影がはっきりしてきて、知内には10時過ぎ、、函館湾を守る葛登支岬灯台には10時40分頃さしかかった。
 やがて函館山が右に見えてきて、奥には函館港が迎えてくれる。巨大なクレーンが林立しているあたりは造船所函館ドックであろう。
 そうこうして函館港11時20分到着。全くの定時である。青森港から3時間40分だった。かつての青函連絡船が約4時間だったから、フェリーは多少船足が速くなったものであろう。
 津軽海峡フェリーのターミナルは、函館市街中心部からはバスで約10分のところだった。
  これまで数多くの海峡を渡ってきたが、津軽海峡は変化が大きく、情緒の深いものだった。デッキに出られれば、石川さゆりの大ヒット曲<津軽海峡・冬景色>を大きな声で歌いたいものだった。

(2022年10月12日)

ご報告 実は、このたびの津軽海峡旅行では、途中、体調を崩してしまいました。無理をして旅行は続けたのですが、それがよくなかったようで、身体を壊してしまいました。それで、10数年間休むことなく続けてきたブログも休載を余儀なくされ、断腸の思いでした。

 旅行中は、30数キロのリュックに15キロの大型カメラと望遠レンズを背負って移動しておりました。片道30分や1時間くらいの移動はいつもの通りです。
 しかし、後期高齢者になって、いつしか体力が落ちていたのでしょう。例年通りの旅行はもはや無理だと思い知らされた次第でした。
 それでも、旅は私の生きがいです。まだまだ行きたい海峡も残っております。体力回復に努め、一つひとつ踏破していきたいと念願しております。

文=リウ・スーユエン、絵=リン・シャオペイ『きょうりゅうバスでがっこうへ』

人気シリーズ第2弾

 台湾の絵本。『きょうりゅうバスでとしょかんへ』に続く人気シリーズの第2弾。
 きょうりゅうバスがこどもたちをのせてがっこうへむかいます。こどもたちはねぼうするこやずるやすみするこはひとりもいません。だって、がっこうのばすはようりゅうくんだからたのしいのです。
 のどかな絵がいい。小さな子が描いたようなのびやかでやさしい絵だ。
 物語もやさしくて、読んでいるうちに、自分もきょうりゅうくんが好きになるようだ。
 近所の図書館には、児童・幼児向けのコーナーがあって、こどもたちが貪るように絵本を読んでいる様子を見かけることができる。物語の世界の扉を自分で開けることは大事だ。絵本に親しんだこどもは、大きくなっても、物語を育んでいくに違いない。
 文リウ・スーユエン、絵リン・シャオペイ、訳石田稔。世界12カ国で出版されている人気シリーズ。
 なお、この絵本には工夫があって、カバーの裏面が〝学校への行き方ポスター〟になっている。アルゼンチンやモンゴルなど様々な国の登校の乗り物が紹介されている。
(世界文化社刊)
お断り:今年の投稿は本日が最終です。ご愛読ありがとうございました。どうぞ良い年をお迎えください。新年は1月10日から再開します。

ポール・オースター『ガラスの街』

ニューヨーク三部作の第一作

 現代アメリカ文学を代表する作家であるポール・オースターの、『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』と続く、これがいわゆるニューヨーク三部作の第一作。
 そもそものはじまりは間違い電話だった。真夜中にベルが三度鳴り、向こう側の声が、彼ではない誰かをもとめてきたのだ。
 冒頭の2行である。いきなりぐいと惹きつけられる。
 ニューヨークは尽きることのない空間、無限の歩みから成る一個の迷路だった。どれだけ遠くまで歩いても、どれだけ街並みや通りを詳しく知るようになっても、彼はつねに迷子になったような思いに囚われた。
 透明感あふれる文章。これが現代アメリカ文学である。柴田元幸の訳が断然いい。アメリカ文学を手がけて第一人者である。
 そもそも奇妙な依頼で、グランドセントラル駅に到着するスティルマンなる男を尾行し当家に害を及ぼさないよう見張っていて欲しいというものだった。
 スティルマンのことはすぐに確認できたのだが、スティルマンは朝ホテルを出ると闇雲にただ歩く。この行動が毎日続く。
 尾行しているのは、ポール・オースターなる私立探偵。しかし、この追跡行はいつまで続くのか、見当もつかない。出口が見えないのである。
 やがて探偵はスティルマンをあろうことか見失ってしまう。
 結末を急ぎたくなると、この小説の面白さは見失ってしまう。ストンとわかるような結末などないのである。そもそも探偵小説だと決めつけて読むと失敗する。
 巻末の訳者あとがきで柴田は、1985年、オースターが17の出版社に本書の原稿を持ち込んでも、ことごとく断られたというエピソードを紹介している。そして、それは本書が探偵小説の枠組みで書かれているからで、それでいて、結末を明かさないことに編集者は却下の烙印を押したのであろうということだった。
(新潮文庫)

唐嘉邦『台北野球倶楽部の殺人』

台湾のミステリー

 これは珍しい台湾のミステリーである。ミステリーの醍醐味とともに、戦前の日本統治下の台湾の鉄道や社会事情が描かれていてまことに興味深い。
 昭和13年10月31日。台北。
 北鉄新店線の終着駅北鉄萬華駅に到着した車内で男が一升瓶をかかえてまま死んでいた。
 捜査に当たったのは、台北南署の刑事李山海と北澤英隆。
 調べによると、男が乗ってきたのは午後11時15分に郡役所前を出たこの日の最終列車。死因は青酸カリ入りの酒を飲んだことによる。男の身元は陳金水。五百元という大金を所持していた。
 一方、11月1日。5時18分高尾着「53」号の車内で、男の死体が発見された。前日の夜に基隆を出発した寝台特急列車。死体は個室で胸を刃物で刺されていた。
 被害者は,台北の藤島興業社長藤島慶三郎で、高雄署刑事課警部石神光男が捜査に当たった。死体は、死後8時間から9時間は経過しているだろうと見られた。
 調べを進めると、殺された二人は共に球見会という野球倶楽部の会員だったとのこと。球見会は台北駅近くの喫茶店で毎週野球談義に興じている野球のファンクラブ。
 球見会のメンバーは7人。大企業の社員が多いのだが、このうち本島人(台湾人)は陳金水ただ一人。7人のうち二人も相前後して殺されたのだから、球見会に関わりがあるのではないかとみるのが自然の流れ。しかし、動機がわからない。
 事件の背景が読めないし、アリバイが強固でなかなか崩れないし、時刻表トリックもある。ミステリーの面白さが詰まっている。
 途中に伏線が張られているのだが、それが物語の終盤で思わぬ展開を見せる。台湾の歴史に関わる悲しい物語である。
 何やら読んでいて松本清張を彷彿とさせた。台湾のミステリー賞の受賞作ということである。
 なお、日本統治時代の台湾の鉄道事情がつまびらかになっていて、そのことも面白かった。昭和12年10月12日現在の台湾鉄道路線図も載っていて、私は、災害のため長期不通になっている阿里山鉄道を除いて台湾の鉄道は全線乗ったことがあるのだが、戦前の台湾の鉄道は随分とたくさんの路線があったのだなと感じ入った次第でもあった。もっとも、短い路線の大半は貨物線のようだが。玉田誠訳。
(文藝春秋刊)

難曲のリスト「ピアノ・ソナタ ロ短調」を聴く

(写真1 演奏会を終えてロビーに出てきた森知英さん)

森知英さんの演奏

 リストの「ピアノ・ソナタ ロ短調」を聴く機会があった。ピアノ曲の難曲中の難曲として知られ、滅多に演奏される機会が少ないほど。私もその存在は知ってはいたが生の演奏を聴いたのは初めてだった。
 クラシック音楽に造詣の深い友人の話によると、特に女性ピアニストでこの曲を演奏会で曲目に選ぶ人は少ないのだとか。ラフマニノフのピアノコンチェルト第2番と双璧かもしれない。
 演奏は森知英さん。1989年第8回ベートーヴェン国際ピアノコンクール(ウィーンで4年に一度開催)第4席入賞や1995年第13回ショパン国際ピアノコンクール(ポーランドで5年に一度開催)デュプロマなどと輝かしい実績を誇る。
 いやはやそれにしてもすさまじいまでの演奏だった。一般的にピアノソナタは3楽章程度で作曲されるがこの曲は30分間を単1楽章での構成で楽章としての切れ目がない。
 とにかく激しい。まるで格闘技だ。森さんの演奏は力強さに弛みはなく緊張が続く。時折挟まれるやさしいメロディーに涙ぐむほどだった。
 とにかく熱演で感動だった。ピアノソナタでこの曲この演奏はなかなか体験できないのではないか。私はここ数年森さんのリサイタルをほぼ欠かさず聴いてきているが、この日の演奏ほど高揚感はなかった。森さんとしてもピアニストとしての一つの達成感が得られたのではなかったか。

世界最大規模の公募展

(写真1 洋画部門の展示会場の様子)

今年も盛大に日展開催

 東京・六本木の国立新美術館で開催された。この後京都、名古屋、神戸、富山に巡回する。
 日本画・洋画・彫刻・工芸美術・書の5部門から構成される総合美術展で、応募作品数が1万点を超え、公募展として世界最大規模だろうといわれ、官展の流れをくみ、文展、帝展と歩んできた110有余年の歴史を有する。何しろ、日本最大級の展覧会場である国立新美術館の展示場が満杯のなるほどのスケールだった。東山魁夷、藤島武二、朝倉文夫、板谷波山、青山杉雨など多くの著名な作家を生み出してきたことで知られる。
  このうち洋画部門は、厳格な審査を経た出品作品は搬入数1,575点で、さらに審査が加えられ、入選547点、無鑑査127点の合計670点が陳列された。
 洋画部門に絞ってみた。それでもおびただしいほどの作品。大半が100号を超す大作揃い。それも、2段に重ねて展示されている展示室もあって驚かされる。
 なかなか質が高い。ただ、モチーフに独創性が弱いようだ。似たような作品が多い。
 そういう中で目にとまった作品を数点。

(写真2 若い女性の浴衣姿が美しい。軽やかな脚の動きが感じられた。

(写真3 妙に惹きつけられた。吸い込まれるようだった。普段、関心の弱い抽象画でこれは珍しい体験)