ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

映画『復讐は私にまかせて』

(写真1 映画館で配布されていたチラシから引用)

インドネシア映画

 インドネシア映画とは珍しいが、渋谷のイメージフォーラムで観た。監督エドウィン、撮影芦澤明子。エドウィンはインドネシア気鋭の監督、芦澤は黒澤清作品で知られる。
 暴力映画、恋愛映画、暗黒映画、復讐劇などのキーワードがごちゃ混ぜに詰め込まれた映画。意味不明。しかし、終始緊張感が続き神霊や謎の女が登場したりと娯楽性はある。ただ、映画のつくりは少々乱雑。もっとも、ロカルノ国際映画祭最高賞受賞だが。
 1989年のインドネシア。喧嘩っ早い青年アジョ。女だてらにボディーガードのイトゥン。二人の決闘。インドネシアの伝統武芸だというが、カンフーのようだ。
 この二人が急速に惹かれあい、結婚に至る。しかし、アジョは勃起不全の男。満足な性生活がおくれない。アジョの勃起不全が少年時代の出来事がトラウマとなっていると知るや、イトゥンは復讐に立ち上がる。
 一方、ある日、イトゥンは、知り合いの男に抱かれ妊娠してしまう。
 妊娠を告白されると、アジョは家を出て行く。イトゥンは産んだ赤ちゃんを捨子に出す。
 大きなあらすじはこれだけだが、インドネシア特有のねっとりした暑さのせいか、人々は狂気に走るようだ。
 ただ、ラストシーンで、アジョもイトゥンも我が家に帰ってきてハッピーエンドになったことには救われた。もっとも、それも、二人が帰ってきたばかりの家に軍人が訪ねてきた様子が挿入されており、先行きがどうなるものか、必要なカットだったのか、どういう意味があるのか不明。

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辻良樹『日本の鉄道150年史』

写真と図解が豊富

 1872(明治5)年10月14日、日本で初めて鉄道が新橋-横浜間に走ってから今年はちょうど開業150年となる。
 日本の鉄道の歴史についてはおびただしいほどの類書があるが、本書の特徴はそのとき折々のエピソードをつなげて綴ったこと。研究書などと違って視点も独特だし、写真と図解が豊富なことも読みやすくしている。
 新橋-品川間の本開業の4カ月前に品川-横浜間で仮開業していたという。運賃も徴収していたし、この仮開業中には明治天皇も乗車されていたという。歴史家や熱心な鉄道ファンでもない限りあまり知られていないエピソードだろう。
 1905年ごろから始まったとされる改軌の動き。鉄道院総裁だった後藤新平が主導したもので、現在と同じ1067ミリの狭軌だった軌間を1435ミリの標準軌にしようとするもので、大方の賛同を得ていたのだが、立憲政友会原敬首相につぶされた。標準軌は現在の新幹線と同じゲージで、もし、実現していたら日本の鉄道事情は画期的に変わっていただろう。なお、私は改軌に反対したのは陸軍だったと認識していたが、どうだったのだろう。
 なお、原は岩手県盛岡、後藤は同じく岩手県水沢の出身で、原ものちに鉄道院総裁を歴任しているが、同郷ながらゲージの幅は合わせられなかったようだ。
 なお、一般性がないからだろうが、貨物輸送に対する記述がほとんどなかったことや、すでに動き出しているLRTへの記述もなかったことは残念だった。
 この頃では食堂車は、観光列車や特別企画列車以外では見かけなくなったが、日本で初めての食堂車は山陽鉄道だったとのこと。メニューは、ビフテキ、オムレツ、ライスカレーなどだった。
 食堂車については私にも大きな思い出がある。1965年ごろだったか、東京午後6時発(当時東北本線に東京駅始発の列車があった)仙台行き特急ひばり号に乗った折、発車するとほどなく食堂車から座席の予約と料理の注文を取りに来た。指定した時間になると食堂車からわざわざ迎えに来たのではなかったか。私はカレーライスを頼んだが、このように、座席と料理の予約というのははなはだ珍しかった。
 もう一つ、青函トンネルが開通し、上野から札幌行きの北斗星号が運転を開始した頃、夕食の食堂車は予約制で、私は滅多にない機会だからと奮発してフレンチのフルコースを頼んだものだった。当時7千円。
 また、私は鉄道好きで、金曜日の夜行寝台列車で、山陰や九州、北東北などに頻繁に出掛けていた。東京駅や上野駅を出ると、すぐに旅情が増したものだった。もっとも、この頃は食堂車を利用する経済的余裕がなく、もっぱらラウンジカーで弁当を食べていたのだった。
 食堂車もない、寝台車もなくなってこの頃は鉄道旅行の楽しみが減ったような気がしてさみしい。
(徳間書店刊)

初秋の花

(写真1 美しいデュランタの花)

可憐なデュランタ

 この頃は樹に咲く花がめっきり少ない。せいぜい、夏から咲いている花期の長いサルスベリやノーゼンカズラが引き続き咲いているのが目立つくらいだ。サルスベリは百日紅というくらいだから、夏に強く当然花期は長い。
 樹に咲く花ではないから見落としがちだが、珍しい花をいくつか見つけた。
 きれいな紫色がとても美しい。切手くらいの大きさに五弁の花びらがついている。花びらの縁は白く彩られている。その花が房状にいっぱい群がっている。一つひとつの花はとても可憐だ。
 ご近所で咲いており、珍しい花で、ブッドリアかなとも思ったが、奥さんに伺うと調べてくれてデュランタだという。なるほど、色はセージあるいはサルビアにも似ているが、子細に見ると花の形が違った。

(写真2 ミモザの花)

 お隣に咲いている。奥さんに伺ったらミモザだという。ちょっと見には、小さな壺のような花かとも思ったが、詳しく見ると、ごく小さな毛玉が花房になっている。とても可憐で弱い風にも揺れている。

(写真3 百日草の花)

 百日草は、数十種類もあろうかというほどに実にカラフル。ジニアとも呼ばれるが、花期が長いのでこの名がある。理由はわからないが、どうしてこんなにもいろいろな種類の花が同じ場所で咲いているのだろとも思ったが、種を蒔くとすぐに咲くらしいから育てやすいのだろう。

仲秋の名月と名花

(写真1 今年の仲秋の名月。レンズの倍率が低かったから月の模様までは写らなかった)

間近に花火も

 今年の十五夜は9月10日だった。
 幸い、快晴の夜で、南の空に輝くような満月が浮かび、まさしく仲秋の名月だった。

(写真2 いいかげんなもので恥ずかしいが我が家のお供え)

 我が家では、いいかげんなものだが、団子を作り、三方に葡萄、柿、梨、林檎などの果物やトーモロコシなどを盛り付け供えた。
 年中行事というのもいいもので、何か平安を感じた。
 また、翌日には近くで花火が上がった。どーんどーんと大きな音がするので外に出てみたら、すぐそばの夜空に大きな花火が上がっていた。近所の高校の文化祭だったらしいが、間近には花火を打ち上げる音というのも大きなもので、びっくりしたほどだった。
 花火は夜空に咲く花のようなもので、これも風情があっていいものだった。

(写真3 秋の夜空に打ち上げられた花火)

桐山智子『タカラヅカ百年の芸名』

タカラジェンヌ4426人

 宝塚歌劇団団員タカラジェンヌの芸名の研究である。
 タカラヅカでは、1期生から100期生までの生徒が4426人。この総数について詳細な探求が行われていて、本書は、A5判332ページに上り、タカラヅカに限ったこととはいえ、これほどの芸名研究は珍しいのではないか。まさしく研究書だが、著者あとがきによると、日本女子大学文学部に提出した著者による卒業論文がもとになっているとのこと。
 だからだろうが、タカラヅカという華やかな歌劇団の芸名研究にしては、まさしく研究書であって、芸能的視点はまったくなく、浮ついた面白さには欠けた。
 だから、本書の本文中から引用しようにもなかなか難しくて容易ではない。わずかに、
 男役と娘役の主な違いは、
 ⅰ 男役は娘役に比べて漢語が多い。
 ⅱ 男役は娘役に比べて一字名が多い。
 ⅲ 娘役は男役に比べて三字名が多い。
などと拾える程度である。
 それで、タカラジェンヌの芸名を私なりに読み込んでいくと、そこにはタカラヅカらしい華やかな名前が並んでいて興味深い。
 50音順のリストを読んでいくと、名字に天のつく名が多いことに気がつく。天彩、天翔、天希などと20人を超す。
 同様に、美のつくのは当然だろうし、千がつくのも千曲、千咲、千里などとやはり20人を超す。
 また、一般人の姓名は、姓+名の組み合わせで、姓は姓に用いられる漢字が当てられるのが一般的だが、タカラジェンヌの芸名で、一般人で本来名前に用いられる漢字が、姓にも用いられ、まるで名+名のような組み合わせになっているものが非常に多い。小百合えみ、奈々あさみ、一希星などがそうだ。
 また、姓にひらがなを用いるのもタカラヅカ流のようで、あうら真輝、あゆら華央などがそうだ。
 姓にしろ名にしろ好まれる漢字ということでは、愛、朝、彩、紫、月、夏、春、若などが挙げられる。大を用いるのは断然男役に多い。
 芸名リストを読んでいったら、著名な姓名がいくつも見つかった。タカラヅカ退団後、芸能界に進出したものが多かったということだろう。 朝丘雪路、天海祐希、有馬稲子、淡島千景、扇千景、鳳蘭、乙羽信子、黒木瞳、越路吹雪、檀れい、浜木綿子、遙くらら、真矢ミキ、大地真央などは私でも知っている。ただ、私は芸能情報には疎いから見落としが多いに違いない。
(武蔵野書院刊)

浦賀水道に面した横須賀美術館

(写真1 前庭越しに見た美術館全景)

素晴らしいロケーション

 京浜急行浦賀駅からバス約15分終点観音崎下車。周囲は全体が観音崎公園で、右に海伝いに進めば観音埼灯台。美術館へは左に約5分。神奈川県横須賀市鴨井所在。
 広大な芝生の前庭の奥に白い翼を広げたように美術館は建っている。振り返れば浦賀水道に面し、眼下を数多くの船舶が行き交って素晴らしいロケーションだ。
 風景だけでも見たくなるような場所にあり、なるほど、1階のレストランは大変な人気ぶりで、平日でも長い行列ができていた。
 建物は地上2階地下2階。特にコレクション展が行われている地階から吹き抜けになったギャラリーが素晴らしい。

(写真2吹き抜けのギャラリー)

 この日は、萬鉄五郎、中村彝、岡鹿之助、三岸好太郎らの作品のほか井上文太の特集展示が行われていた。
 なお、別館として谷内六郎館があり、週刊新潮の表紙絵が展示されている。

上岡直見『自動車の社会的費用・再考』

クルマ強制社会に

 1974年に岩波新書で上梓された宇沢弘文の『自動車の社会的費用』は、相当な物議を醸したものだった。社会的費用という新しい概念が新鮮だったし、増大するクルマ社会への警鐘とも受け止められた。そして何よりも、自動車の所有者・使用者は本来負担すべき費用1台あたり年間200万円を払っていないとする計算には極めて具体的で驚かされたものだった。
 あれから48年。著者は、宇沢の論説を再考してみたのが本書である。
 〝クルマ強制社会〟というのが特徴で、「現在では、大都市を除けば車の利用を前提として地域と人々の生活が組み替えられてしまったことにより、多くの人にとって車の使用は強制に近くなっている」とし、「自動車の普及は、鉄道・バスなど特に地域の日常の移動に必要な公共交通を破壊してきた」と指摘している。
 宇沢の論説以降のこの50年弱のクルマ社会の変遷について詳細な検証がなされているが、クルマは社会の負であるという論調が中心となっており、かといって、負からの解決策が具体的に示されているわけでもなく、宇沢がぶち上げたクルマの社会的費用〝200万円〟に対して、50年経ってどれほどに増えたのか減ったのかストンとわかる具体的数値が示されなかったのは残念だった。
(緑風出版刊)