ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

荒木博行『世界失敗製品図鑑』

攻めた失敗20例

 世界的にも名だたる企業の名が並んでいるが、失敗と烙印を押された製品とサービスの20例を羅列するだけでも面白い。

 アマゾン=ファイアフォン(自社が描いた将来像を重視しすぎて失敗)
 フォード=エドセル(社内的な正しさを追求して失敗)
 コカ・コーラ=ニュー・コーク(適切なコミュニケーションができず失敗)
 フェイスブック=フェイスブックホーム(無理なチャレンジを仕掛けて失敗)
 グーグル=グーグルプラス(企業側の戦略を優先して失敗)
 ファーストリテイリング=スキップ(プロダクトのレンズを外せず失敗)
 マイクロソフト=ウィンドウズフォン(初期段階の出遅れを挽回できず失敗)
 任天堂=WiiU(理想を追求しすぎて仲間を作れず失敗)
 NTTドコモ=NOTTV(成功体験にとらわれて失敗)
 ナイキ=ゴルフ用品事業(強みを活かせない隣接市場に参入して失敗)
 東芝=HD DVD(最初のシナリオを修正できず失敗)
 セガ・エンタープライス=ドリームキャスト(構想に対する実行力が伴わず失敗)
 セブン・イレブン・ジャパン=セブンペイ(自社だけが特別思考に陥って失敗)
 ソニー=AIBO(経営陣の事業尺度に合わず失敗)
 ネットフリックス=クイックスター(反対意見が言いにくい空気に気づけず失敗)
 サムスングループ=サムスン自動車(経済危機に見舞われて失敗)
 ゼネラル・エレクトリック=プレディックス(顧客の準備が整わず悪循環に突入して失敗)
 アップル=ニュートン(主要事業の不調で無理な勝負を迫られ失敗)
 モトローラほか=イリジウム(課題の賞味期限が見極め困難に陥って失敗)
 トヨタ自動車=パブリカ(高度経済成長期のスピードについていけず失敗)
 一つ引いてみよう。
 アマゾンのスマートフォンであるファイアフォンについては、自社が描いた将来像を重視しすぎて失敗と指摘しているが、具体的には、どういう製品だったのか?、どのようにして失敗に至ったのか?、なぜ失敗したのか?詳述している。
 その上で、ファイアフォン失敗でわかる3つのポイントを指摘している。
 ①イノベーティブな商品開発には、ユーザー視点と自社視点という立場のバランスが重要になる。
 ②同時に、現在視点と未来視点という時点のバランスも求められる。
 ③これらのバランスの取り方は、果敢にチャレンジしたものだけが体得できる特典だ。
 なかなか具体的な例示であり、商品開発責任者に限らず企業経営者にも参考となるに違いない。
 「失敗は必ずしも避けるべきことではない」という著者の言葉は励ましの言葉であろう。
(日経BP刊)

映画『戦争と女の顔』

(写真1 映画館で配布されていたチラシから引用)

女ならではの悲惨さ
 
 第二次世界大戦終戦直後のレニングラード。壮烈なレニングラード包囲戦を戦い抜いた町は荒廃と化し、病院には帰還兵の姿が増えていた。前線から戻り看護師として働いていたイーヤの回りは傷病兵ばかりで、治る見込みのない重度の兵士には安楽死の注射が施された。
 イーヤは、友だちのマーシャの子を預かって育てていたが、自身のストレス障害から誤って子供を死なせてしまう。
 折から、マーシャが前線から帰還してくる。子供が死んだと知ると、マーシャは子供を欲しがるが、マーシャはすでに子供が産めない身体になっていた。前線で、64人もの男たちの相手をさせられボロボロになって肉体的にも精神的にも追い詰められていた。
 どうしても子供が欲しいマーシャは、イーヤに代わりに子供を産んでくれと頼む。二人は相手を慎重に選び、生理日などを計算して作戦を練る。
 相手は病院の院長。五十歳くらいか。酒を飲ませ強引に性行を迫る。しかし、一発必中とは行かず、作戦は失敗し、イーヤは妊娠できなかった。
 レニングラード包囲戦といえば、苛烈な独ソ戦のなかでも大都市レニングラードが壊滅するかと思われるほどの悲惨な戦争だったのだが、映画では、戦場は写さず、もっぱら市街の様子を徹底して映し出していた。そこには、終戦後のことゆえ、大砲の弾は飛んでこないのだが、それよりも戦争で苦しむ人々があぶり出されていて。このことがこの映画の主題なのであろう。
 映画のなかでは路面電車が走っていた。レニングラードの路面電車網は当時世界最大の規模だった。その後東京のように次々と廃止されていて、私は一度だけだが、10年ほど前にレニングラード(現サンクトペテルブルグ)に行ったことがあって、その折りにはもはや都市部では電車は見かけなくなっていた。地下鉄が取って代わっていたのである。その当時、軍港のあるクロンシュタットの近くまでは走っていた。
 ラストシーンで、イーヤとマーシャは、癒えない心の傷を克服しようと手を取り合っていたことだけが救いだった。
 なお、ノーベル文学賞作家スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』が原案だと宣伝されていたが、これはいかがなものだったか。確かに原作という位置づけではなかったが、原案とも思われなかった。ノーベル賞作家の作品を引き合いに出さなくとも十分に価値のある映画だったのである。
 ロシア映画。カンテミール・バラゴフ監督作品。

高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』

 

芥川賞受賞作

 埼玉の奥にある、食品や飲料のラベルパッケージ製作会社の支店。全国に13ある支店の一つ。ここを舞台にこの頃のサラリーマンの生態が描かれている。
 登場人物は、支店長、二谷、藤、芦川さん、押尾さん、パートの原田さん。ホールケーキを八等分したら人数分に足りなかったからほかにもいそうだが名前が出てきたのはこれだけ。主役は、二谷、芦川さん、押尾さんの三人。
 二谷は6年間いた東北の支店から三ヶ月前に転勤してきた。芦川さんより一年先輩。芦川さんは入社6年目。新卒入社5年目の押尾さんより1年先輩。つまり、三人とも二十代後半。
 それにしてもこの職場は清潔感に欠ける。芦川さんの机の上のペットボトルのお茶を喉が渇いたからといって藤が口をつける。常識では考えられない。このような会社が現代にもあるものか。
 細かい人間関係に気を遣いすぎる職場だ。支店長が、みんなにお昼はそばを食べに行くぞと大きな声をかけると、弁当を持ってきている人だっているなどと支店長の態度を心の中でなじる。
 そんなこと気にかけずに、行ける人が行けばいいし、そばが嫌いな人もいるだろうし、断ったからといって人間関係にひびが入るわけでもないだろうし。いわんや賞与の査定が悪くなるわけでもないだろうに。
 逆に、こういうエピソードの連続が煩わしい。ちょっと変わった職場だ。違和感がある。
 二谷は、独身。三回目のデートで芦川さんを一人住まいのアパートに誘った。当然のように寝た。芦川さんは時々二谷のアパートに夕食を作りに来るようになった。
 しかし、前後して、居酒屋の帰り押尾さんをアパートに誘い、一緒に布団に入った。
 小さな職場の三角関係だが、転勤してきてわずか三ヶ月目で二人の同僚に同時に手を出すものだろうか。現在の若者はそういう倫理観なのだろうか。それよりも、10人程度の狭い職場で人間関係が煩わしくならないものだろうか。
 そう言えば、この小説は職場の人間関係ばかり描いている。残業したりして仕事もしているようではあるが。
 二谷は変わった男だ。年中カップ麺を食べているといいながら、部屋にはやかんもない。鍋はあるが。カップ麺ならやかんの方が使い勝手がいいだろうに。
 パソコンに向かって、右手でカップ麺を食べながら、左手でマウスを操作している。よほど器用な男だ二谷は。箸を使っている方が利き腕だろう。やってみるとわかるが、左手でマウスを操作するのはなかなかやっかいで、うまくいかない。
 後段になって、二谷が「右手をマウスに移動させて画面をスクロールし」という場面が出てきたが、どっちが本当なのか。両手を使えるということなのか。あるいは、まさかとは思うが、作者のちょっとした瑕疵でもないだろうに。マウスは、左利き用も売っている。また、パソコン本体の設定で、右利き用を左利き用に変更はできる。ただし、ワンクリックで変更できるというものではない。
 二谷は経済学部卒。文学部に入りたかったが、文学部卒では就職できないと言われ、経済学部に入ったという経緯があり、文学部卒にはひけめがあり、「おれは好きなことより、うまくやれそうな人生を選んだな」と振り返る。そんなことでいつまでも愚図愚図としているものなのだろうか。
 芦川さんは、ケーキなど手作りのお菓子を持参して職場に持ってくる。大半の社員は喜んでいる。しかし、お菓子が嫌いなものもいるだろうし、それなら軽く断ればそれで済む話ではないか。
 ある日、藤が全社員を集め、芦川さんが作ったお菓子をぐちゃぐちゃにつぶし芦川さんの机の上にのせているものがいると告発する。名指しはしなかったものの、押尾さんがやり玉に挙げられた。
 この事件があって押尾さんは退職に追い込まれた。また、年度末の異動では二谷は千葉の支店に飛ばされることになった。二谷は押尾さんにつぶしたケーキを芦川さんの机の上にのせておいたのは自分だと告白する。それなのに、転勤したら(芦川さんと)結婚するだろうななどとうそぶく。
 藤が社員の前で告発した際には黙っていたのにである。卑怯な男だし、陰湿だ。。
 その告発の場で、芦川さんは、「お菓子をゴミ袋に入れ机の上に放置するのは止めてほしい。世界にはごはんを食べたくても食べられない人たちがいる。食べものを粗末にするのは止めてほしい」と訴える。
 まるでとってつけたような演説だが、まさかこれがこの小説のテーマでもあるまい。それではあまりにも陳腐だ。
 それに、作者はサラリーマンの職場というものが、わかっていないのではないかと思われた。人物造形が中途半端だし、まったく面白くない。いちいち、他人の言動に反応したり、詮索したりするものでもあるまい。そもそもそんな暇など職場にはないのではないか。
 わずかに新鮮さがあるとすれば、物語の流れが、二谷と押尾さんの視点によるものが交互に出てくることで、読み始めて初めは慣れなくてまごついた。
(文藝春秋9月号所収)

映画『死刑にいたる病』

(写真1 映画館に掲示されていたポスターから引用)

阿部サダヲ好演

 主人公榛村を演じた阿部サダヲなくしてこの映画の成功はなかったと言えるほどの絶妙の配役だった。
 24人の若い男女を殺した連続殺人事件の犯人榛村は、このうち9件で立件され、死刑判決が下されていた。
 折から、雅也のもとに一通の手紙が届く。服役中の榛村からのもので、立件された9件の事件のうち、最後の事件は自分が犯したものではなく、真犯人を捜して欲しいというものだった。雅也は三流大学の学生で、中学生の頃、榛村が営んでいたパン屋に毎日のように出入りしていて面識があった。
 あらすじはこれだけ。しかし、この太い幹から、枝葉が次々と伸びていって息も切らせぬ運び。
 榛村の犯行は、被害者の爪を剥がすという凄惨なもので、直視に絶えないほどのものだが、犯行後は死体を焼き骨を埋めるという手口から犯行が明るみに出ることがなかった。
 こういう犯行は、秩序型連続殺人というのだそうだが、榛村は次第に犯行に慣れて慎重さに欠けるようになり、目撃者が現れるなどして犯行が明るみに出た。
 榛村は、おだやかな口調で物腰も柔らか。しかし、目は笑ってはいなく相手の心の奥を除くような不気味さがある。この役を演じて阿部サダヲにはリアリティがあった。
 一方、雅也を演じたのは、岡田健史。三流大学ということで親の期待にもこたえられず、親族が集まった法事の席にも呼ばれないような存在。
 鬱屈した生活を送っていたのだが、榛村の頼みを聞いて真犯人を捜し歩くうちに、雅也に心境の変化が現れる。非常に微妙な変化だったのだが、雅也はうなだれているだけではなく、強くなってきたのだった。このことは榛村も指摘していて、この変化が面白くて賛同できるのだった。
 物語は進むにつれて二転三転し、驚愕のラストシーンへと続く。
 監督白石和彌。

沢木耕太郎『飛び立つ季節』

旅のエッセイ集

 情感たっぷりで心温まるエッセイだ。ちょっとしたエピソードを一編の作品に仕立て上げて秀逸だ。一編ずつは短いから読むにちょうどよい。
 旅の行き先は全国に及ぶが東北が多いようだ。会津若松、金沢、修善寺、黒石、男鹿、松江、柳川、臼杵、二本松等々。
 私も旅好きだから、これらの土地には足を踏み入れたことがあり、すぐに思い浮かぶ思い出がある。
 ただ一つ、本書に登場した土地で訪れたことのないところは福岡県の秋月。秋月は、福岡藩(黒田藩)の支藩だった秋月藩の城下町。美しい佇まいで知られる。甘木鉄道と西鉄甘木線の終点甘木駅からバスが出ている。甘木駅には、甘鉄でも西鉄でも三度も降り立ったことがあるのに、秋月まで足を伸ばす余裕がなかった。
 沢木の旅の流儀が面白い。旅には行き先の予定を綿密には立てないとある。私は鉄道ファンだからこれはできない。行き止まりの終着駅で、帰りの列車が4時間も5時間もないということはままあることだが、しかし、それもあらかじめわかっていること。降り立って初めて帰りの列車がないなどということはない。なければないで、終着駅の町をそぞろ歩くという楽しみが生まれる。思わずうまいそばにありつけるなどという楽しみを見つけることもある。
 夜行列車には乗らないということ。車窓に楽しみが欠けるからだという。これはまったく同感で、もちろん、夜の車窓にもしみじみとした楽しみはあるが、初めての路線なら、やはり日中にに乗りたい。基本的には一人旅だということ。これも同感。
 著者とは同年代だし、似たような体験が多いようだ、二泊以上する場合、二泊目も同じ居酒屋に寄るらしい。これはいい。こうして馴染みの店が作れる。
 なお、本書は、JR東日本の新幹線社内誌に連載されたものをまとめたものだが、連載はこの三月で打ち切りとなっている。本書あとがきによると、これからは日本の南の方にも足を向けるとあるから、どこか西の方、南の方で会えるかもしれない。
(新潮社刊刊)

スイカ割りと花火

(写真1 スイカ割りの様子)

夏の風物詩

 夏休みで小さなこどもたちが遊びに来た。
 滞在中、こどもたちが喜ぶ遊び。
 一つは、スイカ割り。目隠しをされるとなかなか目標がつかまらない。右!とか、ちょっとだけ左と叫ばれるのだがなかなか難しい。もっとも、その分、みんなでキャキャするのが楽しいい。大人ほど本気になる。
 鈍い音がしてスイカに当たると拍手喝采である。しかし、スイカの皮は厚いから、なかなか割れない。
 みんなで頬張るスイカがうまい。
 もう一つの楽しみは花火。
 あらかじめ小さい子用の花火を用意しておく。
 いろんな花火があるが、難しいいのは線香花火。最も古典的な花火だが、花火の玉を落とさずにいかに長く持ち続けるかがポイント。非常に繊細で、パチパチと弾ける様子が儚げでもある。
 花火をやらせると、三姉妹の特徴が出ていて、上の子はとても怖がり。真ん中の子が大胆で、大きく弾ける花火を喜んで振り回している。下の子も大胆なようで、怖がる上の子を追いかけ回している。
 ところで、線香花火は全国的な人気で、古くから親しまれてきたようだが、線香花火を花火線香と呼ぶ地域が全国に一カ所だけあるらしい。この呼び方を口にしたということで犯人を特定できたミステリーがあった。

(写真2 花火に興じる。これも夏の思い出)

 

 

 

 

 

 

真夏の花

(写真1 ノーゼンカズラの花)

強い花が夏を乗り切る

 今年の夏はまことに暑い。例年もそうだったのだろうかとも思うが、やはりことのほか暑い。熱中症にかかったのか、食欲が衰え、足もとがおぼつかない。およそ食欲がないなどということのないものだからちょっと驚いている。
 夏の花が元気よく咲いている。この花が咲けば盛夏だと思うのは、ノーゼンカズラもその一つ。橙色の花が空に向かって伸びる様は夏そのものだ。ただ、ポタポタと花は落ちるから忌み嫌う人もいるに違いない。

(写真2 サルスベリの花)

 もうすこし早い時期なら、タチアオイが咲けば夏が訪れた感じるが、真夏になると、サルスベリも暑い夏を印象づける。幹がつるつるしているのでこの名があるようで、この花は花期も長くまことに夏に強い。

(写真3 ムクゲの花)

 夏期が長いといえば、ムクゲもそうだ。空に向かってたくさんの花をつけている。箒を逆さまにしたよな枝振りだが、この花も丈夫だ。
 真夏を乗り切るということで、花も強いのだろう。
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