ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

映画『天才ヴァイオリニストと消えた旋律』

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(写真1 映画館に掲示されていたポスターから引用)

ユダヤ人のアイデンティティ

 宣伝惹句に〝クラシック楽曲と世界を巡る極上の音楽ミステリー〟とある。
 しかし、『パリに見出されたピアニスト』や『レディマエストロ』などの映画のように、美しい音楽に乗って若き音楽家の成功譚が綴られるのかと期待すると肩透かしを食う。内容は、ユダヤ人のアイデンティティを追求した物語だ。
 1951年のロンドン。天才ヴァイオリニストの初舞台の日、ドヴィドルは忽然と姿を消す。理由も告げずに。
 これより前、戦時下のロンドン。ユダヤ人の少年ドヴィドルが音楽一家の家にワルシャワからやってくる。初め息子マーティンは相部屋になったりすることを嫌っていたが、音楽を通じて次第に仲良くなっていく。マーティンがピアノを弾き、ドヴィドルがヴァイオリンを弾く日々が続く。父親はドヴィドルの才能に気づき、ガリアーノのヴァイオリンを与える。
 映画は、物語が行ったり来たりして進むので注意深く見ていく必要がある。
 そして、成長したドヴィドルがいよいよ初舞台という日。すでに天才としての誉は高まっていたのだったが、ドヴィドルは開幕の時間になっても戻ってこなかった。何があったのか。プロモーターの父親はチケットの返金などで多額の損害を被る。
 35年後。音楽家の道を進んでいたマーティンが、あるコンクールでドヴィドルとまったく同じ癖のある仕草をする青年を見てドヴィドルのことを思い出す。
 ここからマーティンがドヴィドルを捜す旅が始まる。ロンドン、ワルシャワ、ニューヨーク。
 手がかりは皆無に等しかったのだが、やがてニューヨークに至ってマーティンはドヴィドルがガリアーノのヴァイオリンを持っていたことを思い出す。
 ガリアーノのヴァイオリンとは、ストラディヴァリウスなどと並んで18世紀イタリア製の名器として知られる。現在なら数千万円はするのではないか。
 マーティンは、このガリアーノを手がかりにやがてドヴィドルを探し出す。
  フィナーレが良かった。ロンドンにやって来たドヴィドルは、35年前に果たせなかった約束の演奏を行う。演目は35年前と同じ。名演奏に、聴衆はスタンディングオベーションで答えた。
 監督フランソワ・ジラール。劇中のヴァイオリン演奏はレイ・チェン。

第14回白堊芸術祭盛大に

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(写真1 開幕からにぎわっていた白堊芸術祭)

同窓会の総合美術展

 12月13日から18日まで神田神保町の文房堂ギャラリーで開催された。会場には、13日の開幕と同時に大勢が駆けつける盛況ぶりで、大半が同窓生のようだったが、ここのところ集まる機会が少なかったせいか、久々のにぎわいだった。
 白堊芸術祭とは、高校時代の同窓生による美術展。今回は、昭和20年卒の大先輩から61年卒の中堅まで49人76作品が出品された。
 出品分野は、水彩、陶芸、書、写真、パステル、布遊び、油彩、短歌、絵画、鎌倉彫、日本画、水墨画、写真五行歌、グラフィックデザイン、彫刻、アクリル絵画、ペーパークラフト、リトグラフ、詩、航空写真などと実に多彩。
 出品はプロアマ問わず一堂に会するのが特徴で、常連に加え初出品もあって新鮮な顔ぶれだった。常連の中には、3回4回と出品を続けるうちに明らかに作品の完成度が高まっている出品者も見られて、同窓生の展覧会らしい面白さだった。

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(写真2 千葉祐治鎌倉彫<宝相華文>

 感心したのは、千葉祐治さんの鎌倉彫で、この方は毎年出品しているが、まるで玄人はだしで、<宝相華文>は四角い額に円形と三角形が重層に彫り込まれた飾額で、美しさとともに緻密な彫刻は完成度が高いものと思われた。

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(写真3 高橋利宏陶芸<準結晶>)

 また、高橋利宏さんの<準結晶>と題する陶芸作品は、まるで結晶モデルを思わせる面白い造形で、陶芸作品としてはユニークな印象だった。高橋さんは物理学者で、近年陶芸をはじめられたとのこと。準結晶の模型を作品にしたものだが、対称性を持ちそもそもあり得ないとされる構造となっている。サッカーボールにも似ており、物理の世界では〝フラーレン〟と呼ばれるものらしい。
 なお、ずぶの素人がプロの作品にコメントするのも気が引けるが、ユニークだったのは坂本努さんの<トルソーと紙風船><ノウゼンカズラ>の2枚の油彩画。実に立体感のある豊かな画面になっている。不思議に思って作者にお聞きすると、部分的に絵の具を盛り上げて描いたとのこと。

京都逍遙

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(写真1 紅葉が美しい実相院の庭)

岩倉実相院門跡を訪ねて

 信楽で全鉄道全線全二周を達成した翌日は、京都をぶらついた。
 ちょうど紅葉の季節だが、あまり混んでいるところも嫌だし、あちこち何カ所も歩く気もなかったので、一カ所ということで少々遠くてもいいと思い初めてのところを探した。
 それで見つけたのは、岩倉の実相院。門跡寺院で、20年ほども前になるか、管宗次著『京都岩倉実相院日記』(講談社選書メチエ)を読んで、いつの日か実相院を訪ねてみたいものだと思っていた。本書は、実相院の坊官である下級貴族が綴った幕末の世相だが、無類の面白さの巻末の結びに、「もし実相院を訪れるなら、……紅葉のころが特にすばらしく」と筆者によって記されてあった。
 洛北岩倉にあり、地下鉄烏丸線の終点国際会館からバス便があるとのこと。国際会館には10月下旬に来たばかりだったが、そのときには紅葉を見る余裕もなかったし、まさか一ヶ月後に実相院を訪ねるなどとは夢想だにしていなかった。
 時刻を調べもしないで来たのだが、バス停に30分も並んでいたら、乗客の列が長く伸びていた。京都バスで終点実相院下車すぐ。
 あいにくの雨だったが、それなりに訪れる人は多くて、まさかこんなに人気の寺院とは思っていなかった。門跡だからであろうか。
 ひっそりとした寺院で、少なくとも参観できる場所はさして広くもない。しかし、それだけにお寺の佇まいが身近に感じられて好ましい。

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(写真2 庭に面して大きなガラス窓。この日は寒かったからストーブがありがたかった)

 紅葉は庭に面して佇んでいると味わいが増してくるようだった。ただ、雨が降っているせいか鮮やかさにはややかけるようだった。それでも、帰途には雨も上がっていて、玄関を出ると燃えるような紅葉だった。これが実相院なのだと感じた。

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(写真3 雨上がりの紅葉には光が差してキラキラと輝いていた)

 床もみじといって、庭の景色が室内の磨かれた床に映る様子は、なるほど評判通りの美しさだった。ただし、写真撮影は許されなかった。

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(写真4 実相院の門)

 なお、帰途は、三条にあるイノダコーヒーに寄った。すぐ近くには本店もあるのだが、この支店の佇まいが良くていつでもこちらにしている。京都に来たときには時間の許す限り寄っていていつしか馴染みである。

 円形のカウンター席が好きで、この席ならコーヒーを淹れている様子が間近に見られる。とくに、しゃもじでお湯を注いでいる様子はちょっと感心する。
 この店のメニューのトップはあらかじめ砂糖とミルクを注いだブレンドコーヒーだが、私はブラックが好みなので、コロンビア産のブレンドコーヒーにしている。ただ、出てきたコーヒーはとてもぬるくて、思わずそのようにつぶやいたら、聞こえたのか、すぐに熱いものと差し替えてくれた。何事に寄らず熱いものが好きで、特に風呂とラーメンとコーヒーは熱いに限る。

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(写真5 イノダコーヒーの円形カウンター席。中央でしゃもじを手にコーヒーを淹れている様子)

彦根城

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(写真1 国宝の彦根城天守)

国宝の現存天守

 彦根は、井伊35万石の城下町だったところ。徳川四天王の一人井伊直政を藩祖とし、たびたび大老職を出すなど譜代筆頭の地位にあった。大老としては幕末の井伊直弼がよく知られる。譜代大名で35万石は破格である。また、居城彦根から一度も転封や移封がなかったことも希有な例である。

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(写真2 駅からまっすぐに伸びる大通り。遠く天守が望める)

 その彦根城には、彦根駅からまっすぐに大通りが伸びていて、遠くからでも天守を望める。そういうことでは姫路城にも似ているか。駅から徒歩15分ほど。沿道には洒落た店が並んでて散策するのに楽しくなるようだ。
 彦根城は、維新においても廃却を免れており、全国に12ある現存天守の一つであり、このうち5つある国宝天守の一つである。ちなみに残る4つは、姫路城・松本城・犬山城・松江城。

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(写真3 延々と続く石段)

 がっしりした石垣が残されており、二つの堀を渡ると石段が延々と続く。麓で竹製の杖をかしてくれる。私は借りなかったのだが、途中で借りれば良かったと悔やんだほど。

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(写真4 やっと天守が間近になってきた)

 天守が美しい。三層か。内部に入れるのだが、急な階段がきつい。石垣もそうだし、天守もよけいな装飾がなく無骨なほどの美しさだ。最上階からは琵琶湖が眼下に望めた。

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(写真5 眼下には琵琶湖が広がっている)

 城内は城の構えが美しい。二つの石垣をまたぐ橋は、戦時には落とされるという。戦略的なのだ。

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(写真6 石垣をまたいでかけられている橋)

長浜鉄道スクエア

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(写真1 現存する日本最古の鉄道駅舎)

鉄道博物館

 このたびの信楽への旅では、前日までに米原に入り、長浜と彦根をぶらついた。
 長浜は、米原から北陸本線でわずか3駅目9分。琵琶湖の北東部にあり、羽柴秀吉が築いた長浜城の城下町である。北陸本線・東海道本線で彦根、京都、大阪と新快速電車が直通している。
 また、長浜は、鉄道の要衝であり、東海道本線が全通するまでは鉄道連絡船が長浜と-大津の間を結んでいた。
 長浜駅から徒歩数分。まるで隣接するように長浜鉄道スクエアががあった。スクエアは旧長浜駅舎や長浜鉄道文化館、北陸線電化記念館などで構成される鉄道博物館となっている。
 旧長浜駅は、鉄道の要衝として北陸線(旧敦賀線)の起点駅であり、長浜-大津間の鉄道連絡船の駅として1882年に開業したもので、保存されている旧長浜駅舎は現存最古の鉄道駅舎であり、第1号の鉄道記念物に指定されている。
 旧長浜駅舎は、コンクリート仕上げの外壁で、鹿鳴館調の建築様式が珍しい。保存状態も良く、数々の鉄道遺産が保存されている。

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(写真2 長浜-大津間を結んでいた渡船時刻表)

 興味深いのは太湖氣船會舎「渡船時刻表」で、明治十九年三月十五日改正とあり、長浜出帆が午前九時三十分、午後四時三十分、午後十時で、大津出帆は午前八時、正午十二時、午後十時とあり、運賃は下等参拾五銭、中等五拾五銭、上等八拾銭となっている。ある研究によると、長浜-大津間は約2時間を要してたという。現在なら、電車で65.8キロ、約1時間のところである。湖上なら、大雑把だが直線距離で55キロか。
 なお、鉄道連絡船は1889年(明治33年)東海道本線の全通に伴って廃止となっている。

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(写真3 北陸線電化記念館に展示されているED70形機関車)

 また、北陸線電化記念館にはD51形793号蒸気機関車とED70形機関車が並んで展示されている。米原-福井間は険しい山地を越えており、急坂やトンネルが多く、蒸気機関車では輸送力が落ちていて早くから電化、複線化が進められてきた。1957年には当時日本最長だった北陸トンネルが開通して福井まで電化が完成した。
 なお、長浜駅正面には長浜城址があり、天守が復元されている。

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(写真4 現在の長浜駅外観)      

近江鉄道

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(写真1 米原駅に停車中の近江鉄道電車。左奥は東海道本線)

3路線59.5キロ

 信楽へは近江鉄道で向かった。11月26日。
 近江鉄道は、琵琶湖の東を走る米原-貴生川間の本線47.7キロの本線と、高宮-多賀大社間の多賀線2.5キロ、八日市-近江八幡間の八日市線9.3キロの二つの支線がある。本線終点の貴生川駅でJR草津線、信楽高原鉄道と接続している。
 起点の米原駅は、JR米原駅東口のはずれにある。目の前が米原市役所。東海道新幹線は西口側にあたる。
 1面2線のホームがあり、2番線から7時00分発近江八幡行きに乗車。2両のワンマン運転。時間が早かったせいか、まだ出札窓口が開いていなかった。

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(写真2 彦根駅改札口)

 米原を出るとすぐにフジテック前。右窓に高い箱形の塔が見え、どうやらエレベータの工場らしい。やがて彦根。ここの窓口で1日乗り放題切符を購入した。500円と破格。近江鉄道の本社がある。かつてはここが起点で、その後現在の米原まで延伸された。

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(写真3 高宮駅ホーム。左が3番線多賀大社行き)

 高宮で多賀線に乗り換え。Y字形の2面3線のホームがあり、2番線から3番線に移動した。7時29分着、7時33分発。2両ワンマン運転。

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(写真4 多賀大社駅前の大鳥居)

 そうこうして終点多賀大社前7時39分着。駅前に大きな鳥居が立っており、いかにも門前町の風情。せっかくだから多賀大社にお詣りした。

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(写真5 絵馬通りという美しい参道)

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(写真6 家々には〝笑門〟と書かれた絵馬が下がっている)

 美しい参道が続いており、絵馬通りというらしく、石造の行灯が並んでいる。家々には笑門と書かれた木札が下がっている。信心深いようだ。

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(写真7 多賀大社拝殿)

 徒歩10分ほどか。立派な拝殿である。さすがに大社を名乗るだけのことはある。境内は実に広大。多賀大社は長寿の神様らしい。

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(写真8 高宮-五個荘間で左窓に並行している東海道新幹線)
 慌ただしかったが、8時20分発で高宮に戻り8時38分発で再び本線。左側に東海道新幹線の高架がぴったりと並行してる。これが五個荘まで延々と続いている。
 

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(写真9 近江鉄道車両。これは100形=元西武新101系か)

 ところで、近江鉄道の車両は4種類ほどが走っているようだったが、どこか既視感がある。果て?と考えてみたら、どれも西武鉄道に似ている。それもそのはず、近江鉄道は、西武の100%子会社なのである。西武の堤康次郎がこの地方出身という縁があったものらしい。とにかく合理化の徹底した鉄道会社で、未だ自動改札はないし、交通系ICカードも使用できない。すべて2両編成のワンマン運転である。

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(写真10 八日市駅ホーム。右が3番線八日市線。左は本線彦根方面行き)

 9時03分八日市着。1番線到着で階段を使って3番線の八日市線に乗り換え。9時10分発近江八幡行き。

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(写真11 近江八幡駅1番線で発車を待つ近江鉄道列車)

 20分で近江八幡着。散策しようかと考えていたが先を急ぎたくて9自38分発ですぐに折り返した。近江八幡はJRとの接続駅で、琵琶湖側がJR線となっていた。

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(写真12 八日市駅の近江鉄道ミュージアム)

 再び八日市に戻ると、立派な駅舎。2階には近江鉄道ミュージアムという鉄道博物館があって、往時の鉄道設備などが展示してあった。見学自由。

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(写真13 八日市駅の〝駅ピアノ〟)

 また、待合室には〝駅ピアノ〟が置いてあった。誰もいないようだったので1曲弾いてみた。弾き終わったら手を叩く人がいて、びっくりして振り返ると若い女性がニコニコとしている。それで、厚かましくも弾いている模様を写真に写してもらった。

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(写真14 列車は自転車持ち込み自由)

 列車は自転車持ち込み自由のようで、自転車を引いてくる人が時々いた。しかし、これは便利だろう。
 そうこうして終点貴生川到着。11時07分。
 近江鉄道は3度目で、貴生川駅も3度目だったのだが、なぜか信楽高原鉄道にはこれまで1度しか乗っていなかった。さあ信楽線だと強い思いを持って乗り換えた。

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(写真15 近江鉄道終点貴生川駅改札口)

信楽へ

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(写真1 JR全線踏破を達成した留萌本線増毛駅で妻と=2003.7.17)

全鉄道全線全二周への道のり

 全国の全鉄道全線全二周達成については、一昨年くらいには視野に入ってきていた。ところが、昨年には新型コロナウイリスが猛威を振るっていて、私の旅など〝不要不急〟の最たるもので、家族からは強い足止めを食らっているし、どこにも出掛けられなくてじりじりとしていた。
 それでも、計画だけは練っていて、最後はどこにしようかと思案を進めていた。どこか情緒のあるところがいいなと漠然とは考えていた。
 宮脇俊三さんが、名著『時刻表2万キロ』の最後で「足尾線にはわるいが、最後の一線はもうすこし情緒のある線区、たとえば、一日二往復しかない中湧別-湧別間あたりで乗り終えて夕方のオホーツク海岸を一人感慨にふけりながら、……、にもかかわらず、月並みな関東地方の、それも公害の原点などと言われる足尾になってしまった。」と書いていて、私も腐心をしていた。
 ところが、少しずつでも乗っていると、残りが少なくなっていく。難物だった近鉄や名鉄、西武や東武などと大都会の大手私鉄も片付いていく。地下鉄の駅じゃ味気ないし、東京や名古屋、大阪などの地下鉄も最後にならないよう乗りつぶしておいた、
 そうすると、残ったのは大井川鐵道、富山地方鉄道、沖縄都市モノレール、信楽高原鉄道くらいで、どの鉄道も魅力ある路線ばかりだが、結局、信楽高原鉄道を最後としたのだった。
 ここに至るには長い道のりがあった。
 そもそも私は岬好きで、全国の岬を訪ね歩いてきた。岬は辺境にあることが多いから、鉄道も随分と隅々まで乗ってきた。
 そんなあるとき、宮脇俊三さんの『時刻表2万キロ』を読んで、そうか、こんな趣味もあるんだなと感化され、自分もどれほど乗っているのかと調べてみたら、ざっと7割ほどもすでに乗っている。これなら自分も達成できるのではないか、そう思って鉄道にも目を向けるようになった。つまり、宮脇さんの名著は、国鉄全線2万キロ完乗の悪戦苦闘を描いたものだったのだが、そもそも私も鉄道好き、然らばと積極的に鉄道に乗る旅にも出るようになったのだった。
 しかし、これは宮脇さんも書いておられることだが、初めの7割と残る3割では困難さが格段に違った。虫食いのように残っている路線をつぶしに行く、そのような旅が毎週末のように続いたのである。
 例えば、男鹿半島の入道埼には秋田から男鹿線の終点男鹿の一つ手前、羽立駅が入道埼へのバス便の最寄り駅となる。男鹿まで行ったのではバスに連絡しないのである(現在は変わって、男鹿駅発のバスは男鹿線の到着を待って発車する)。従って、全線踏破のためには、羽立までは乗ったことがあるのに、一駅分だけ残った男鹿線にまた乗りに行かなければならないということになるのだった。
 しかし、そうこうして2003年7月17日、今は廃線となった留萌本線増毛駅をもってついにJR全線完乗を達成した。その気になってから33年が経っていた。
 いつもは「鉄道に乗ってばかりの旅ではつまらない」と言って敬遠しがちだった妻が、このときばかりは「一緒に行ってあげる」と自分から言い出して同行してくれた。初夏のこと、窓から入る風が頬に気持ちよかったことを18年経った今でも鮮明に思い出す。このときは娘が「JR全線踏破!」の幕を作ってくれていて、夫婦で並んで幕をかざして記念撮影をした。何か誇らしげだったが、私よりも妻のほうが喜んで興奮していた。

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(写真2 全国全鉄道全線完乗を達成した島原鉄道加津佐駅で妻と=2007.11.3)

 このあともこつこつと鉄道に乗る旅は続けていて、2007年11月3日には今は廃線となった島原鉄道加津佐駅をもって日本の全鉄道全線完乗を達成していた。この全鉄道全線にはJRのほか第三セクター、私鉄、地下鉄、モノレール、新都市交通、路面電車、ケーブルカー等とにかく日本全国の鉄道と名の付くものすべてが含まれている。
 JR全線を踏破してからわずか4年のことだった。JR全線が約2万キロ、私鉄その他鉄道全線が7千キロだから、JRが3倍近い営業距離だが、路線数はJRの約180に対して私鉄その他が約390もあり、JRの2倍以上もある。
 このときも妻が同行してくれて、普段は一人旅ばかりだったから珍しくも夫婦で鉄道旅行を楽しんだ。この間も夫婦による旅行は行っていて、ニューヨーク、パリ、ロンドン、アムステルダム、スイス、ウイーンなどへ出掛けていた。
 JR全線を踏破した際には、達成感よりも喪失感のほうが強くて、しばらくぼうっとしていた。しかし、尻は軽いほうだし、全国の地図を広げては新しい岬を探していた。岬は交通の不便なところが多いから、車のほうが断然便利だが、私はよほどの事情がない限り岬には鉄道とバスそして徒歩で訪ねるようにしている。
 そうこうしてローカル私鉄の魅力に気がついた。JRの路線はすでに2回も乗っているからそれなりに見当もつくが、地方の私鉄は初めてのところが多い。
 しかし、乗ってわかったことは、JRも私鉄も車窓の楽しみはまったく変わらないということ。
 車窓と到着した町の景色はローカル私鉄のほうが色濃いと言えるほどだ。私鉄の場合は町の真ん中まで線路を引いていることが少なくないのである。それで、全国の私鉄にも積極的に乗りに出掛けていた。
 初めから私鉄も乗りつぶそうと考えていたなら、そのようにやっていただろうが、私鉄全線を乗るなどということは、夢想だにしていなかった。この際、第三セクターは国鉄JRからの転換が大半だからすでに乗り終えているところも少なくなかったが、純然たるローカル私鉄は未乗区間として残っているところが多かった。

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(写真3 今は廃線となった十和田観光電鉄十和田市駅=2009.2.8)

 今は廃線となってしまったが、十和田観光電鉄という路線があった。東北本線の三沢駅から十和田市駅までを結んでいた路線で、全長14.7キロ、駅数は11だった。路線名が観光電鉄となっているので紛らわしいが、十和田観光への鉄道というよりは、三本木原の田園地帯を走るまさしくローカル線で、途中の駅名も三農高校前や工業高校前などとあって、そのことこそに風情があった。雪に埋もれているのではないか思われる真冬の三沢駅に夜行列車から降り立つと、ほかに乗客さえ見当たらない車内に思わずおののくようだった。
 15キロに満たないような路線に乗るために、金曜日の夜行列車は私の習慣となった。毎週末そのような旅が続いていたが、今にしてみれば妻も二人の娘たちも、よくぞ見放さずにいてくれたものだと感謝しかない。
 全鉄道全線を踏破して、さすがに腰を落ち着けるかと思っていたが、かつて乗った路線が懐かしくなって、またまた、ふらふらとあちこちに鉄道に乗りに出掛けていた。

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(写真4 JR全線全二周を達成した伊勢奥津駅で=2017.1.5)

 そうこうするうちに、2017年1月5日、名松線伊勢奥津駅でJR全線全二周を達成した。初めてJR全線を乗り終えてからでは14年の歳月が流れていたし、全鉄道全線を完乗してからでも10年の月日が経っていた。
 また、このたび信楽高原鉄道信楽駅をもって全鉄道全線全二周を達成してしまった。
 信楽駅ではさしたる感慨もわかなかったが、東京に帰る新幹線の車中で、達成感よりも「俺は何をやっていたんだ」という喪失感の方が深くてこれは途惑った。膨大な時間を投下してきた。これによって仕事をないがしろにしてきたことはなかったが、そもそもが児戯に類するようなこと。人様に誇れるようなことでもなかった。
 最後の旅に出掛ける前に妻が、「あなたのような気違いか阿呆みたいな人は世の中にたくさんいるんですか」と訊いてきた。なるほどどうなんだろう。「鉄道雑誌の編集部にでも問い合わせればわかるんじゃないかしら」とも。
 それで、鉄道雑誌の編集部に問い合わせたところ、「JR全線に乗ったような人はいるだろうが、全鉄道となるとどうだろうか。ましてや全二回ともなると……」というようなこと。はっきりしたことはわからないらしい。
 まあ、私がやったことは、妻の言う通り、気違いか阿呆みたいなもの。人に誇ろうとも思わないし、ただ、好きな鉄道に乗ってきた、それこそ全国くまなく、それでいいではないか、今はそういう気分で、やっと達成感がわいてきたようだ。

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(写真5 全鉄道全線全二周の最後の駅となった信楽高原鉄道信楽駅)