ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

特牛灯台(山口県下関市)

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(写真1 趣のある佇まいの特牛灯台。照射灯が併設されている)

  赤い光を放つ小さな灯台

 初めて現役の灯台として国の重要文化財に指定された灯台4基のうち、山口北九州にある角島、六連島、部埼の三つの灯台を巡った後は、少し足を伸ばして特牛灯台を訪ねた。

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(写真2 山陰本線特牛駅)

 特牛は、大変難読で、〝こっとい〟と読む。特牛灯台は、山口県下関市豊北町所在。山陰本線特牛駅が最寄り駅。特牛駅も難読駅として鉄道ファンの間で評判。位置関係としては角島のやや南ということになる。滝部駅、特牛駅、角島と巡回するバスが出ている。所要8分、特牛港下車。特牛港は、角島大橋が開通するまでは角島への渡船が出ていたらしい。ケンサキイカという良質のイカで知られる。バス停前の魚屋にイカが吊して干されていた。

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(写真3 特牛港)

 バス停から、魚市場とは反対側、角に喫茶店のある海沿いに進むこと約5分ほど。登り口が心配になって、道沿いの家の庭にいた年配のご夫婦に尋ねたら、ご主人がわざわざその登り口の見えるところまで案内してくれた。そのご主人、背の低い灯台だが道に迷うことはないだろうが、道は滑りやすいから気をつけてと。

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(写真4 夏草に覆われた灯台)

 くだんの登り口からわずか5分ほど。すぐに灯台にたどり着いた。なるほど、灯台は一段下にあるからなおさら低く見える。確かに塔高は6.3メートルと低いが、灯高は27.0メートルもあるから灯台の役割を果たすのに不都合はない。6角形の白色塔形で、味のある佇まい。照射灯(特牛地ノ瀬照射灯)が併設されている。

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(写真5 灯室の内部が赤く見えた)

 灯質は、単明暗白赤光で、赤色は分弧になっている。外見としては、灯室の内部が赤く見えた。灯台表には、赤光(分弧)35度~95度(鼠島、壁岩及び港口付近の険礁を示す)、104度~170度(双子島及び港口付近の険礁を示す)と記してある。

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(写真6眼下には特牛港)

 灯台から眼下を見渡すと、日本海が広がり、左端に特牛港が見える。
 帰途、注意が散漫になったころ坂道で滑った転んだ。登り口を教えてくれたおじさんのいう通りとなってしまった。その際、膝を不自然に曲げてしまったらしく、数日間、痛みが引かなかった。

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(写真7 灯台への登り口)

                        (2021年7月20日取材)

<特牛灯台メモ>(灯台表、現地の看板、ウィキペディア等から引用)
航路標識番号/0709
位置/北緯34度19分1秒 東経130度53分5秒
名称/特牛灯台
所在地/山口県下関市豊北町
塗色・構造/白塔形
レンズ/不明
灯質/単明暗白光明6秒暗2秒(赤光は分弧)
光達距離/4海里
明弧/35度-170度
塔高/6.3メートル
灯火標高/27メートル
初点灯/1912年(明治45年)1月15日
管轄/第七管区門司海上保安部

関門海峡を渡る

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(写真1 門司港から関門海峡を渡る。下関はすぐ対岸)

日本遺産ノスタルジック海峡

 関門海峡とは、本州の下関と九州の門司を隔てる海峡。最も狭まる壇ノ浦と和布刈の間は600メートルと狭く、早鞆の瀬戸と呼ばれている。下関市と北九州市にまたがって関門ノスタルジック海峡として日本遺産に認定されている。
 航路としての関門海峡は500メートルとさらに狭く、しかも、潮流は最大10ノットを超えることもあるという。また、潮流は日に4回向きを変える。海峡の長さは、前後部分も含めて約50キロといわれている。
 海峡。何と詩的な響きか。海峡にたたずむと、その峻別さにおののくと同時に、ロマンチックな気持ちなるのはどうしてか、
 日本は、大きくは四つの島からなる列島だから数多くの海峡があるが、関門海峡は、古来、往来の盛んな海峡。現在では、海底トンネルが3本、橋梁が1本が渡されている。これらによって、下関市と北九州市は関門都市圏としてくくられている。

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(写真2 門司港桟橋)

 ここでは、地上交通は使わず、海上交通を使って海峡を渡った。門司側は門司港駅のすぐそばにある門司港桟橋(マリンゲートもじ)から乗船。行き先は下関の唐戸桟橋。運賃400円。

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(写真3 関門連絡船)

 目的地はすでに対岸に見えていて、右に関門大橋を仰ぎ見ながらが海峡を渡っていく。すぐに唐戸桟橋到着。この間わずかに5分。海峡の気分をセンチメンタルに浸っている時間もないほどだ。

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(写真4 途中、右手に関門大橋が見えた)

 唐戸桟橋はにぎやかなところ。唐戸市場があり、下関グランドホテルがあってターミナルになっている。

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(写真5 唐戸市場を右に見ながら唐戸桟橋に到着した)

 唐戸市場は人気の魚市場で、この日は平日の日中だったから市場特有のにぎやかさは感じられなかったが、市場を見下ろす2階通路が一般客向けの食堂や魚屋となっているようだった。

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(写真6 ふぐの水揚げで知られ観光的にも人気の高い唐戸市場)

 桟橋の前には古い建物が健在で、往時を偲ばせていた。
 下関は大きな港で、この唐戸桟橋のほか、関釜連絡線が発着する国際船ターミナルや、下関駅に近い漁港などと点在している。なお、唐戸桟橋と下関駅はバスで約10分のところ。

復元された門司港駅

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(写真1 重文に指定されている門司港駅外観)

重要文化財の鉄道駅

 門司港駅は、鹿児島本線の起点駅。関門トンネルが開通するまで九州における鉄道の玄関口だった。現在は観光スポットである門司港レトロの中心的存在。
 小倉駅から鹿児島本線で門司港に向かうと、次の門司を出ると下関行きが分岐してトンネルに入っていき、門司港行きはそのまま地上を走り、小森江あたりからは多くの側線の集散を繰り返しながら終点へといたる。長いアプローチを経て行き止まるのは、函館や青森などと同様に連絡線時代の名残で、激しい旅情を感じる。

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(写真2 門司港駅ホーム。連絡線時代の名残か、長いホーム)

 門司港に到着すると長いホーム。これも函館や青森と同様で、2面4線の頭端式ホームが並んでいる。

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(写真3 ホームの端にある0哩標)

 ホームの端には、九州の鉄道の起点を示す0哩(マイル)標がある。1972年当時の国鉄九州総局が設置したもの。
 改札を出るとレトロな駅舎。この駅に降り立ったのはたびたびだが、前回の5年前の2016年には駅舎は改装中で、工事用のシートで覆われていた。2年前に工事は終了していて1914年(大正3年)当時の駅舎が復元されていた。
 外観は、ネオ・ルネッサンス様式で左右がシンメトリックになっている。なかなか味わいがある。鉄道駅としては初めて重要文化財に指定されている。次に重文に指定されたのは東京駅だが、これら二つの駅ともに、鉄道ファンならずとも誰しも外見を見ただけで駅名がわかるのではないか。貴重な存在だ。

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(写真4 かつての切符売り場)

 駅舎内には、切符売り場や待合室などが当時のまま残されており、待合室はカフェになっていた。

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(写真5 かつての二等待合室はカフェになっていた)

 駅を中心に周辺は門司港メトロとして観光スポットになっている。大正時代建設の建物が現存しており、往時の殷賑を偲ばせてくれている。

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(写真6 門司港メトロの一つ三井倶楽部)

 珍しいのは「はね橋」、歩行者用の跳ね橋としては日本で最初のものらしい。待っていたら大きく開いた。もとより船舶の航行を助けるためのものだが、航行する船は少ないようだった。

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(写真7門司港駅のそばにあるはね橋)

 周辺をぶらぶらして気がつくのは、〝焼きカレー〟の看板がいたるところにあること。どういうものか食べてみた。ひと言で言えば外見はラザニア。ご飯の上にカレーをかけ、チーズをのせオーブンで焼いたもの。元々はレストランのまかない料理として提供されていたものだということ。門司港には何度も訪れているが、これまで気がつかなかった。このごろ評判になったものであろうか。

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(写真8 近ごろ門司港名物焼きカレー)

角島灯台(山口県下関市)

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(写真1 すらりと背の高い角島灯台)

重要文化財指定現役灯台巡り③

 角島(つのしま)は、山口県北西部の島。現在は2000年に完成した角島大橋によって結ばれている。海域としては日本海のうち響灘の北のはずれということになる。角島とは、島の東西にある二つの岬が角のように見えるところから名づけられたらしい。角島灯台は、この二つの岬のうち西の夢崎にある。

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(写真2 角島灯台への最寄り駅滝部駅)

 角島灯台へは、山陰本線の滝部駅あるいは特牛駅からバス便がある。ただし、便数が非常に少なく、慎重に時刻表を検討する必要がある。

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(写真3 本土から角島に渡る角島大橋)

 滝部駅7時58分発。始発で、角島を巡回して戻ってくるルート。乗客1名。つまり自分だけということ。あらかじめ運転士に下車したい停留所名を知らせておいた。30分ほどすると角島大橋にかかった。見事なコバルトブルーの海に長い橋が架かっている。全長1,780メートルもある。さらに進むと、角島灯台公園前。運転士が声をかけてくれて、灯台への道順を教えてくれた。
 すぐに灯台が見えてきた。バス停から徒歩10分ほど。すっくと立ち実に美しい灯台だ。全国に姿のいい灯台は数多くあるが、これは五指に入るのではないか。感動する。

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(写真4 角島灯台の初点銘版。明治九年三月一日とある)

 しかも、145年前の完成当時のままの姿だというから驚く。初点灯が1876年(明治9年)である。
 ブラントンの設計で、このたび重文に指定された4基の灯台はすべてブラントンの設計によるものだ。ブラントンはイギリス人技師で、この角島灯台を設計した当時は34歳だったようだ。7年余の滞在中、26もの灯台を手がけていて、この角島灯台が最後の仕事だったという。その名の通り「日本の灯台の父」である。

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(写真5 海側から見上げた灯台)

 灯台は、高さ(地上-灯頂)が29.62メートル、灯火標高(平均海面-灯火)44.66メートルとなっており、大変背が高い。15メートル程度の台地に立っているので高い灯台にしたものであろうか。
 花崗岩による石造で、堂々として風格がある。上部に独特のデザインがあって、西洋の列柱に見えなくもない。
 半円だが、両腕を伸ばして測ってみたところ18尋(ひろ)ほどあった。尋とは両腕を伸ばした長さのこと。170センチある自分の身長から勘案すると約30メートルということになる。前日訪れた部埼灯台よりは断然太い。

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(写真6 巨大な第1等フレネルレンズがわずかに目撃できる)

 灯台は登ることができる参観灯台で、展望デッキに立つと、眼下に日本海が大きく広がる。快晴だからであろうか、日本海にしては波が静かで、碧い海が美しい。灯台の魅力が増す瞬間だ。階段の終わりあたりからレンズがちらっと見えた。日本に5基しかない第1等フレネルレンズである。また、クヅ瀬照射灯という設備が付属している。

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(写真7 クヅ瀬照射灯)

 灯台のほか、現在は記念室として使われている灯台守の旧退息所や倉庫なども重文に指定されている。

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(写真8 ブラントンの座像がある展示室)

 記念館には、ブラントンの座像があり、業績を讃えた展示が行われていた。展示室には第1等フレネルレンズの模型があって、高さが2メートルもあろうかという大きさで驚くほどだった。

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(写真9 重文に含まれている旧退息所。現在は記念館となっている)

 周辺は、角島灯台公園として整備されていて、自生しているというハマユウが美しい白い花をたくさん咲かせていた。

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(写真10 ハマユウが咲き誇る公園から遠望した灯台)

                        (2021年7月20日取材)

<角島灯台メモ>(灯台表、現地の看板、ウィキペディア等から引用)
航路標識番号[国際標識番号]/0715[M7397]
位置/北緯34度21分1秒 東経130度50分5秒
名称/角島灯台
所在地/山口県下関市豊北町角島
塗色・構造/無塗装塔形、石造(花崗岩)
レンズ/第1等大型フレネル式
灯質/単閃白光 毎5秒に1閃光
実効光度/閃光67万カンデラ
光達距離/閃光18.5海里(約34キロ)
明弧/352度-232度
塔高/29.62メートル
灯火標高/44.66メートル
初点灯/1876年(明治9年)3月1日
管轄/第七管区海上保安本部門司海上保安部

六連島灯台(山口県下関市)

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(写真1 島の北に建つ六連島灯台)

重要文化財指定現役灯台巡り②

 六連島(むつれじま)は、響灘(日本海)に浮かぶ小島。下関から渡船が出ている。下関駅前の漁港側から歩いて5分ほど。竹崎桟橋。渡船場のそばにキョウチクトウ(夾竹桃)が咲いていた。珍しくも淡い桃色をして実に美しい。

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(写真2 六連島への渡船六連丸)

 六連島と結ぶのはその名も六連丸。定員80人の小さな船。日に往復4便しかない。16時40分発の便に乗船。乗客は10数人。全員島に帰る人たちか。

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(写真3 出港後の渡船から振り返ってみた六連島桟橋)

 六連島は、下関の西約4キロメートルに位置しており、周囲わずかに3.9キロ。航空写真で見ると、空豆のような形をしている。高い山はないようだ。
 竹崎桟橋を出港すると、細い水路を走っていく。左は彦島というらしい。大型船は通れないのではないか。途中右手に造船所。クレーンが4基ほど林立していたが、漁船など小型船の建造が中心のようだ。

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(写真4 彦島大橋と右下は造船所)

 やがて、彦島大橋をくぐると外洋に出た。貨物線やコンテナ船など大型の船舶が多い。係留されている船も少なくない。その中に東京海洋大学の船があった。真っ白い船体が美しい。
 甲板で一緒になったおばあさんが話し好き。下関の病院に行った帰りだという。島が多く、いろいろと名前を教えてくれる。彦島は橋ができて得をしたと言う。
 途中、緑色と朱色の二つの浮標が見えた。間隔1キロほどか。大型船はこの二つの浮標のあいだを通る決まりだという。六連島灯台はとてもいい場所に建っていると重要性を強調していた。

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(写真5 六連島に向かう船の背後には小倉の街。製鉄所のキューポラが見える)

 背後に目をやれば、小倉の町がくっきりと望める。おばあさんは、若いころは島から小倉まで泳いで渡ったことがあるらしい。

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(写真6 渡船から遠望した六連島灯台)

 そんな話を伺っていたら、そうこうして六連島が見えてきた。竹崎桟橋から約20分。島の右端に灯台が見えている。おばあさんによれば、海沿いの道を行けばすぐに灯台への登り口があるとのこと。
 なるほど、10分も歩かないうちに登り口。階段を登るとすぐに灯台。いかにも古い灯台。初点銘版に明治四年十一月廿一日とある。ただし、これは旧暦で、新暦なら1872年1月1日である。神戸以西で3番目、山口県内で最も古い灯台。

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(写真7 灯室にはLED灯器)

 ブラントンの設計になるもので、白色塔形で、半円の付属舎がついている。いかにもブラントンの特徴が出ている。石造無塗装で、花崗岩がやや経年変化してくすんできている。灯室を仰ぎ見ると、レンズはフレネルではなくLED灯器だった。
 この灯台は、関門海峡を抜けてきた船舶が初めて目にする光で、東端の部埼と結んで関門海峡を睨んでいる重要な役割を担っている。くだんのおばあさんの話の通りだ。幕府が英国に対し大坂条約で約定した部埼、六連島と二つの灯台が、そろって重要文化財に指定されたということで、大変意義深い。なお、この二つの灯台は、設置理由・時期、設計・建設が近似しているところから双子灯台と呼ばれることがあるらしい。

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(写真8 灯台から見た本土側)

 灯台からはしきりに航行する大型船舶と、下関と北九州がまるで海峡の対岸のように見えた。

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(写真9 史蹟 六連島燈台行幸所の石碑)

 灯台のそばに「史蹟 六連島燈台行幸所」なる石碑が立っていた。明治5年6月12日、明治天皇が中国・九州地方巡幸の際、西郷隆盛らを従えて来島した記念のもの。明治天皇が灯台を行幸したのはこのときが初めてだったとのこと。
 帰途、渡船場で帰りの船を待つあいだ、付近をぶらぶらしていたら、細長い大きな段ボール箱を持ったおばさんに出会った。伺うと、花を運んでいるのだという。この島はウニやアジなどの海産物のほか花卉が産物なのだという。なんでも、瓶詰めのウニを工夫したのはこの島が最初なのだということだった。
 灯台が重文に指定されたことは歓迎される。島起こしにしたい。それで、灯台に登る階段の草取りなどをして整備しているが、島全体としてはまだ盛り上がりが少ない。
 とにかく島は年寄りばかりで若者がいない。渡船の便数も減って住みづらい。以前は保育園もあったが数年前になくなった。小学校もないから、子どもたちは船で下関の学校に通ってる。高校まではそうやって通っているが、卒業すると島を出て行って戻ってこなくなると語っていて、典型的な過疎の様相だった。
 渡船場から振り返って島を見上げると、島の斜面に段々と家並みが見えた。島内では、男が軽トラ、女はオートバイが足らしく、くだんのおばさんもオートバイにまたがっていた。

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(写真10 船着場から見た島の様子)
                         (2021年7月19日取材)

<六連島灯台メモ>(灯台表、現地の看板、ウィキペディア等から引用)
航路標識番号/5537
位置/北緯33度58分7秒 東経130度52分1秒
名称/六連島灯台
所在地/山口県下関市六連島
塗色・構造/白色塔形、石造(花崗岩)
レンズ/LED灯器
灯質/単閃白光 毎3秒に1閃光
実効光度/閃光3700
光達距離/閃光12海里(約22キロ)
明弧/140度-12度
塔高/10.6メートル
灯火標高/27.9メートル
初点灯/1872年1月1日新暦(旧暦明治4年11月21日)
管轄/第七管区門司海上保安部

部埼灯台(北九州市)

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(写真1 周防灘に面した部埼灯台)

重要文化財指定現役灯台巡り①

 現役の灯台が初めて国の重要文化財に指定された(2020年12月23日付)。指定されたのは、千葉県銚子市の犬吠埼灯台、山口県下関市の六連島灯台と角島灯台、福岡県北九州市の部埼灯台の4基。いずれも明治初期の点灯で、150年近い歴史を有するものばかり。これらの灯台にはこれまでにも何度か足を運んだものもあるが、重文指定を機に北九州山口地区の灯台を改めて訪ねてみた。
 初めに部埼(へさき)灯台。北九州市門司区所在。九州最北東端企救半島の突端、つまり、周防灘に面し、関門海峡の九州側東端に位置する。
 部埼灯台へは、門司港駅からタクシーを利用した。約40分。途中の白野江というところまでバス便があるのだが、そこから約1時間も歩かねばならず、岬巡りを趣味とする者、1時間程度の徒歩は覚悟の上なのだが、白野江にはタクシーはないというので、この日は真夏の炎天下、熱中症が懸念されてやむを得ずタクシーに乗ったのだった。
 灯台は丘の上に建っているのだが、麓から灯台まで手すりのついた階段が設けられている。この灯台を訪れるのは3度目だが、前回来た5年前にはなかったから、あるいは重文指定に伴って新しく整備されたものかも知れない。階段は真新しい花崗岩造りになっていて、これはこの周辺の採石場から運んだものであろう。来る途中に巨大な採石場があった。花崗岩の産地なのであろう。

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(写真2 灯台から周防灘を望む)

 灯台は40メートルほどの小高い丘の上にある。断崖絶壁というわけでは決してないが、とても見晴らしがいい。眼下は周防灘である。ややかすんではいるが対岸がはっきりと肉眼で目撃できる。山口県の小野田あたりであろうか。ひっきりなしに船が行き交う。瀬戸内海と日本海を結ぼうとするものであろう。船舶の交通量が多く、日に1,000隻も航行しているという。

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(写真3 海側から見た灯台全景)

 灯台そのものはさほど大きくはない。塔高が10メートルくらい。白色塔形で、花崗岩による石造である。両手を伸ばして測ってみたところ、半円で8尋分ある。私の身長から換算すると13.6メートルあり、円周は27.2メートルということになる。半円に渡って付属舎がついている。

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(写真4 灯台上部灯室の中にフレネルレンズ)

 日本における洋式灯台の父と言われるヘンリー・リチャード・ブラントンの設計によるもの。半円の付属舎がついたものはブラントンの設計によくみられたもの。レンズが小型だが、フレネル式だ。なお、初点銘版には明治五年正月二十二日とあった。

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(写真5 潮流信号所の電光板)

 灯台の後背部に部埼潮流信号所があって、電光で潮流の方向を示している。いかにも海峡に面した灯台である。なお、この建物はかつての官舎で、このたびの重文指定では灯台のほかこの旧官舎も含まれている。
 この部埼灯台は、幕府が英国と締結した大坂条約に基づき整備した5基の灯台のうちの一つで、九州現存最古の灯台として歴史的価値が高いものとして重文に指定された。灯台そのものは地味な外観だが、ロケーションといい、になってきた歴史的役割といい、とても印象深い灯台だ、
 なお、灯台下の海岸沿いには大きな彫刻がある。江戸末期、松明を掲げた僧清虚の像で、海峡を通る船舶に松明を焚いて安全を知らしめたという。それほどにこの海峡は船舶にとって難所だったのであろう。         (2021年7月19日取材)

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(写真6 松明を掲げた僧清虚の像)

<部埼灯台メモ>(灯台表、現地の看板、ウィキペディア等から引用)
航路標識番号[国際標識番号]/5409[M5312]
位置/北緯33度57分6秒 東経131度01分4秒
名称/部埼灯台
所在地/福岡県北九州市門司区大字白野江字部埼
塗色・構造/白色塔形、石造(花崗岩)
レンズ/第3等小型フレネル式
灯質/連成不動単閃白光 毎秒15秒に1閃光(燈光会が設置した現地の看板には、連続でやや暗い不動光が点灯するなか15秒間に1回白い閃光を発する、と解説があった)
実効光度/閃光31万カンデラ、不動光2.2千カンデラ
光達距離/閃光17.5海里(約32キロ)、不動光10.5海里(約19キロ)
明弧/全度
塔高/9.7メートル
灯火標高/39.1メートル
初点灯/1871年(明治5年)1月22日
管轄/第七管区門司海上保安部

ローレンス・ブロック『殺し屋』

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アメリカらしい小説

 ケラーを主人公とする10話からなる連作短編集。
 ケラーは、殺しを稼業とするニューヨーカー。マンハッタンの一番街に面し、イーストリヴァーやクイーンズボロ・ブリッジが見えるアパートメントに住んでいる。戦前から建っているアール・デコ風のロビーと係員のいるエレヴェーターつきの高層建築で、部屋は19階にあり寝室は一つだが快適。独身、年齢不詳。スーツを着た押し出しのいい男とある。
 仕事は、ホワイト・プレーンズから連絡が入る。ホワイト・プレーンズはニューヨークの北にあり、ニューヨークきっての高級住宅地として知られる。ハーレムラインの電車で30分ほどであり、近年、日本からのビジネスマンも住むようになった。アパートメントからはタクシーでグランド・セントラル駅まで飛ばして電車に乗る。
 ホワイト・プレーンズでは、トーントンプレースのヴィクトリア朝風の館に住む〝親爺〟から指示が出る。取り次ぐのは秘書のドット。つまり、依頼は親爺が吟味し諾否を決める。それをケラーに回すわけだ。
 とにかく仕事のディテールがきちんと書き込まれているのが魅力。このような仕事が現実にあるのかどうか、殺し屋稼業の実態など我々には知るよしもないのだが、アメリカならと思わせられるリアリティで、読む者を惹きつける。
 彼の仕事に気まぐれは無用だった。会ったこともない男を殺すために千マイルも旅する仕事は、気まぐれで引き受けられるような類いのものではない。
 素人を相手にするときには、遵守すべき鉄則がふたつある。ひとつはプロに徹することだ。もうひとつは、そう、決して素人など相手にしないこと……
 仕事は、事故死と自然死、このふたつがどんな場合においても一番いい。
 しかし、ときにはこういう仕事もある。ポケットから輪にした針金を取り出し、イングルマンの首に巻きつけた。すばやく、静かで、完璧な手口だった。首の骨を折ったこともあった。
 仕事柄、ケラーは全米中を飛び回る。
 ポートランド、デンヴァー、ワイオミング州キャスパー経由マートイングゲイル、シェリダン、ソルトレイクシティ、ラスヴェガス、フィラデルフイラ、オマハ、セントルイス、タルサ、シンシナティ等々。
 旅先ではレンタカーを借り、ドライブインに泊まる。どちらも料金は日程に余裕を持たせて前払い。
 食事は無頓着。ピザハットだったりもする。
 空腹だったので全部たいらげた。味にかかわらず。そして、ここには住みたいとは思わないだろう?と自分につぶやいた。
 仕事の中身は様々だ。これがこの短編の面白味。一編ごとに意外な展開が多くなかなか読み筋通りにはいかない。
 ケラー自身の正体がばれてしまったこともあるし、人ちがいをしてしまったことも。指示されたターゲットのホテルの部屋番号が何と違っていたのだ。すでに一度地元の殺し屋が失敗した仕事というのもある。当然、ターゲットは警戒を強めるから仕事はむずかしくなる。

 それにしても、これはアメリカらしい小説と言えるものかどうか。映画ということでは、ジャン・レノ主演の『レオン』がニューヨークを舞台ににしていたし、パリを舞台にしたアラン・ドロン演じる『サムライ』も孤独な一匹狼の殺し屋を描いて面白かった。
 日本には組織のしがらみを受けないフリーランスの殺し屋を描いたいい映画はないものかと思い起こせば、もう50年以上前にもなるか『狙撃』があった。加山雄三主演という異色のキャストで、スナイパーのディテールが描かれていて印象深い。
 小説では印象深いものがなくてすぐには思い起こせない。中村文則や矢作俊彦あたりが書いてくれたら面白いものになるのではないか。勝手な思い込みだが。
(二見文庫、田口俊樹訳)