ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

陸前高田から大船渡そして宮古へ

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(写真1 大船渡線BRTと三陸鉄道が接続する盛駅)

大震災から10年目の被災地へ②

 陸前高田からは再び大船渡線BRTで大船渡へ向かった。雨は強まるこそすれ弱まる気配はまったくない。車窓から写真を撮ろうにも曇ってうまくいかない。

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(写真2 風光明媚な海岸も曇ってよく見えない)

 大船渡線は、大船渡やがて盛が終点。ここでも途中下車した。大船渡が近づくと、大船渡湾沿いに走る。BRTとは言え、8つも駅があり、湾の深いことがわかる。鉄道時代でも4駅だった。天然の良港である。もっとも、このリアス式海岸が津波被害を大きくしたのだけれども。魚市場が操業している。三陸沿岸は漁場に恵まれていて水産業が盛んであり、どの町でも魚市場の復旧が最も早かった。
 やがて盛到着。大船渡線の終着である。BRTはここまで。ここから先は三陸鉄道となる。沿線自治体は、鉄道の復旧に際し、JRの提案するBRTにするか、あくまでも鉄路での復旧を目指すか、それぞれに判断が分かれた。
 BRTならば復旧が早いし、運行経費も少なくて済む。元来、利用者が少なく赤字路線となっていて、廃線も取り沙汰されていた。それで、大船渡線や気仙沼線沿線はBRTを選んだ。
 これに対し、山田線の沿岸部宮古-釜石間の沿線自治体はBRT化を主張するJRに対しあくまでも鉄路での復旧を粘り強く求め、この結果、JRは復旧させた上で三陸鉄道(三鉄)に譲渡し運行を委ねることで妥協した。
 三鉄は、旧山田線部分を間に挟んで南リアス線(盛-釜石間)と北リアス線(宮古-久慈間)を含め1本の路線リアス線として一体運行することとしたのだった。これによって三鉄リアス線は南は盛から北は久慈まで営業距離は全長163.0キロに達し、第三セキターとしてはわが国最長の路線を運行する鉄道会社となった。東日本大震災からの復興は鉄路によって成し遂げようという沿線自治体と三鉄の固い絆によって進められることとなったのである。

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(写真3 新しい街に生まれ変わってきた大船渡市街中心部)

 大船渡市街を巡ると、大船渡駅周辺は銀行やホテル、商店が建ち並び新しい町へと生まれ変わっていた。かさ上げもされたが、陸前高田ほどの大規模なものではない。街は高さ10メートルほどか、高い防潮堤によって守られていた。

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(写真4 大船渡の市街を守る防潮堤)

 街の中心にはビルが1棟残っていた。旧商工会議所の建物のようで、遺構として残してあるもののようだ。見ると、3階建てのうち2階までは完全に津波によって破壊されているのに、3階部分にはガラス窓が残っていた。わずか1メートルほどの差によって被害がくっきりと分かれるのは、津波の怖さであり残酷さである。

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(写真5 遺構なっていたいた旧商工会議所ビル)

 さて、盛駅は、駅自体は高台にあったから津波被害を免れたのだが、前後を含め周辺の各駅で津波に遭わなかったのはこの盛駅だけである。運命は微妙である。

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(参考1 津波によって破壊された線路=2011年)

 震災直後に訪れたときには、線路は破壊されて見るも無惨な状態だった。
 盛からは三鉄。BRTから乗り継ぐと、なぜかほっとする。やはり鉄道はいいと実感する。
 旧南リアス線だった区間は沿岸部が多いから津波被害も各所で遭遇した。それも新しい路線、駅に生まれ変わって真新しい。そうこうして釜石。ここも駅自体は津波被害を免れた。釜石線との接続駅である。

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(写真6 釜石駅で発車を待つ三鉄列車)

 釜石からは旧山田線だった区間。津波に徹頭徹尾やられた路線で、ラグビーワールドカップの会場となった鵜住居や大槌、陸中山田などと続く。残念ながら街の様子は雨で曇っていてつぶさには見えない。この間、岩手船越は本州最東端の駅である。ここは津波被害を免れた数少ない駅の一つである。
 やがて閉伊川を渡ると宮古。この閉伊川を渡る鉄橋も津波で破壊された。

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参考2 津波で落ちた山田線閉伊川鉄橋=2011年)