ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

梯久美子『サガレン』

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樺太/サハリン境界を旅する

 サガレンとは、宮澤賢治が旅した時代の樺太の呼称の一つ。
 この島は、実効支配した国によって樺太、サハリンなどと呼び名が変わってきていて、そのつど〝国境〟も動いてきた歴史があり、当然、敷設されていた鉄道においてもその版図によって大きく変わってきた。
 著者梯久美子は、樺太あるいはサハリンの鉄道とはどういうものだったのか、非常なる関心を持っていたし、国境などない島国に生活している者の常として国境という響きに憧憬があったのだろうし、特に北海道に育った梯にしてみればそこは海峡を跨いだ近さだったのだ。
 午後10時42分ユジノサハリンスク発。サハリン最大の都市から島を南北につらぬく東部本線を北上して終着駅ノグリキに至る約12時間613キロの旅。2017年11月のこと。乗ったのはサハリン唯一の寝台急行列車。車両は新しく、車内は清潔とある。
 車中2泊。窓外の景色は、北海道と同じエゾマツやトドマツ。北上してもツンドラにならず、白樺林が続いている。
 そもそもサハリンは、日露戦争後の1854年のポーツマス条約によってサハリンの南半分、北緯50度以南は日本の施政下となって樺太と呼ばれた。
 しかし、第二次世界大戦でソ連軍は国境を越えて侵攻、全島占領した。ただし、日ソの間に未だ平和条約は締結されておらず、「国際法上は、この島の帰属はまだ確定していない」。
 梯がこの島を訪れたのは「第一の目的は、この列車に乗ること」と言い、併せて廃線跡も訪ねること。自ら「私は鉄道ファン」と明言しているほどである。このごろでは女性の鉄道ファンも少なくはないが、廃線派というのは珍しい。もっとも、梯には『廃線紀行』という著作まである。
 コルサコフ(大泊)に上陸し、ユジノサハリンスク(豊原)からドーリンスク(落合)、ボロナイスク(敷香)、スイルノフ(気屯)、ボベジノ(古屯)を経てハンダサ(半田沢)へと列車は進む。
 ただ、「かつての国境をいつ越えたのか、正確にはわからない。午前六時半から七時くらいの間に北緯50度線を越したはずだが、七時を過ぎても窓の外はまだ真っ暗だった。」
 やがて列車はノグリキに到着した。サハリン鉄道の終着駅であり、最果ての町である。北緯51.8度。ユジノサハリンスクから11時間43分。気温はマイナス8度とある。
 なお、ユジノサハリンスクはロシア帝政時代にはウラジミロフカと呼ばれていて豊原を経て二つの帝国の領土を反映して地名は変遷してきたから、「百年足らずの間に三つの地名を持つ」こととなり、「いくつもの名が地層のように」重なっており、それはそのままこの島がたどった近代の歴史を表している。
 梯は、この旅の後もう一度サハリンを訪れている。再訪では宮澤賢治が樺太を旅したところをなぞるように訪ねていて、その様子は本書で第二部「賢治の樺太」をゆくとしてまとめられている。
 本書は、日本が樺太と呼んで支配していた時代から現在に至るサハリンを見つめると同時に、サハリンにおける鉄道の変遷を描いていて興味深い。もちろん、国境の様子も。
 ただ、私には、著者梯の体温が感じられる記述が最も面白かった。
 つまり、ナイロンロープとガムテープを持参して乗車、寝台車に急ごしらえのカーテンを取りつけたこと、暗い寝台車で筆記できるようペン先が光るボールペンを持参したことなどとあり、何事によらず用意周到である。
 ほかにも思わず感心するようなエピソードが紹介されているが、この著者には海外旅行に対して胆力のあること、写真もすべて自身で撮っていることなど実に素晴らしい。『廃線紀行』も自身の写真で表現されていたが、著作全体に臨場感がもたらされていた。
 〝鉄道ファンにとって何より優先されるべきは「なかなか乗れない路線に乗る」「乗れるだけ乗る。乗りつくす」〟とこんな言葉もあって、同じ鉄道ファンにとって断然同意できるのだった。
(角川書店刊)