ABABA’s ノート

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映画『三島由紀夫VS東大全共闘50年目の真実』

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(写真1 映画館に掲示されていたポスターから引用)

討論会のドキュメンタリー映画

 過激な学生運動が吹き荒れていた1969年5月13日、東大駒場キャンパスの900番教室で行われた、作家三島由紀夫と東大全共闘との討論の模様を収録した実写映像を骨格に、関係者へのインタビューを交えたドキュメンタリー映画。約80分に及ぶ映像はTBSに保管されていたもので、50年を経て日の目を見た。討論会のことは当時から話題になっていたし、フィルムの存在もよく知られてはいたが、TBSは何で今頃になって世に出したのだろうか。
 討論会は、学生側の呼びかけで行われた。会場に単身乗り込んだ三島。学内には開催案内の看板が立てられ、そこには三島をゴリラと揶揄する言葉が書かれ、えさ代100円とあった。講堂である会場は、千人を超す学生たちであふれんばかりだった。
 初め、三島に発言が許され、三島は「言葉をぶっつけ合おう」と語りかける。他者と存在のこと、言葉の有効性について、反知性主義のこと、解放区について等々学生が用意したテーマを中心に討論が進められた。
 私は、左のものであれ右のものであれ暴力を否定したことはない。私が行動を起こすときは、結局諸君と同じで非合法でやるほかはない。ただし、おまわりさんにつかまらないうちに自決でも何でもして死にたいと思う。
 たとえば、安田講堂で全学連の諸君がたてこもったときに、天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒にとじこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。
 長いディスカッションでテーマは多岐にわたったのだが、感心したのは三島の態度。終始紳士的で議論は丁寧。言葉遣いも落ち着いていて、相手を煽って論破しようというところは微塵もない。揶揄することもなくユーモアさえ飛び出して余裕すら感じられた。自身の母校でもありある種の安心感があったものかも知れない。
 だから、学生の方もついつい合わせられておとなしい討論となっていた。学生側は、当初、三島をねじ伏せて壇上で切腹でもさせようと目論んでいたようだが、左翼対右翼といった対立にもなっていなかったし、結局はかみ合わなかった。
 会場からもヤジも怒号なども少なかった。時に、観念過ぎると怒鳴る学生もいたが、学生同士の怒鳴り合いを制止する落ち着きもあった。三島のユーモアを喜んでいる風でさえあった。
 ところで、三島が登壇すると、司会者が開会を告げた。この学生が面白い。学生服を着ているのである。この時代、学生服を着ているのは右翼がかった学生ぐらいなもので、さすがに場違いだと思ったのか、その後脱いだが。また、髪もきちんと調髪してあるし、三島のことを思わず〝三島先生〟と呼んだりして礼儀正しくはあるが、会場の失笑を買った。三島はというと、ラフな服装だった。
 司会はテーマによって順番に交代していて、次の学生はボサボサ頭にひげ面。赤ん坊を抱いていた。三島を敵だと位置づけてはいたが、敵と戦うという緊張感が見られなかった。この学生が最も理論家と思われたが、論争を流行のファッションか何かのようにとらえていたのか、活動家でもなかったようで、革命を論じる割には非合法の臭いすらしなかった。
 討論会の映像の合間には、ところどころにインタビューが挟まれていた。討論会を司会した全共闘の学生のほか、評論家や盾の会の者などが登場していた。また、安田講堂攻防戦など資料映像も挿入されていた。
 ただ、このインタビューは最近行われたもののようで、当時の時代背景の解説にはなったのだろうが、50年もたっているからまるで懐古調で緊張感も何もなかった。
 かえって、革命が起きるのではないかと本当に当時は感じていたなどと全共闘学生に言われると、当時はそういう幻想もあったのだろうが、そのまま現在に至るも同じ感慨を持ち続けるとは唖然とする。
 三島が、別の場面で書いていたが、全共闘の学生らは自己の死を賭してまで政治的スローガンを守りぬこうとしないことにいらだちを示していたことを思い出した。
 実際、当時はテロリストはいなかったし、ゲバ棒を振り回して、殲滅、などと言って革命を指向していたなどと今更に言われても現実性がない。ゲバ棒で革命が起きるとは誰も思ってはいなかっただろうに。挿入された映像の中にあったが、騒擾罪が適用された1968年10.21国際反戦デーの新宿騒乱事件は学生が街頭に出たという意味で最も過激だったのかも知れない。
 結局、みんな世慣れていたのだ。甘かったのだ。そのことがわかる映画ではあった。消極的にはそういう意味しかなかった。これでは保守に侮られる。当時は一生懸命だった、などと自己を肯定してその後代議士になり、大学教授になり、大企業の役員になった姿を見せつけられると憮然とするし、まるで懐メロみたいな映画が出てくると、三島の嘆きがわかろうというものだ。結局、自分の行動に最後までけじめをつけたのは全共闘議長だった山本義隆くらいなものではないか。蛇足だが。
 討論を終えて退場しようとする三島が、「諸君の熱情だけはわかった」と言い残したことは、甘える学生の頭をなでたようで面白くなかった。三島にも馬鹿にされていたのだ当時の東大生は。監督豊島圭介。