ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

部分復旧を重ねて運転再開した常磐線

特集 常磐線復旧への軌跡③

 

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(写真1 原ノ町駅では前後ともに不通となり構内には取り残された特急車両。後方には普通列車車両も留置されていた

原発事故と津波 異なる二種の被害

 常磐線の復旧は少しずつ進んできた。直接の被害のあった広野-亘理間だけで102.8キロと100キロを超すし、それもあちこちと寸断されている。しかも、原発事故によるものと地震・津波によるものと全く様相の異なる二種類の被害があって複雑になった。
 つまり、いわき方は主に原発事故からの復旧であり、岩沼方では地震・津波被害からの復旧だった。
 常磐線は、全国の鉄道路線の中で本線と名のつかない路線では最長。いわば大幹線ともいえる路線であり、その復旧は一日でも早くと待たれた。
 いわき方から見ていくと、広野から竜田へと伸びたのは2014年6月1日。この間は8.5キロ。途中に木戸駅がある。なお、現在は広野と木戸の間に新たにJヴィレッジ駅が今年2020年3月14日常磐線全線運転再開に機を合わせて開業した。Jヴィレッジは、Jリーグのサッカー施設で、これまで原発警戒区域への前線基地として使用されていた。

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(写真2 ホームを渡る仮設通路で封鎖された竜田駅)

 復旧した広野-竜田間には2015年8月30日に乗りに出かけた。東京から仙台まで常磐線はどのように結ばれているのか。非常なる興味があって乗りに行ったのだった。
 途中の木戸駅など駅舎はもとより沿線にも何の傷跡も見当たらなかった。これが津波被害と決定的に違うところで、原発事故の無情な恐さだ。無傷な鉄道施設を見ていると腹が立ってくるようだった。

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(写真3 竜田駅前で発車待つ原ノ町駅行き代行バス)

 竜田から先へは原ノ町まで代行バスが出ていた。このときは列車に乗ってきた10数人の乗客の大半がそのまま代行バスに乗り継いだ。
 ただ、代行バスも竜田から原ノ町まで途中の8駅46.0キロをノンストップで走らなければならない。バスが発車したら車掌が「帰還困難地区を通過するので窓の開閉は遠慮して下さい」とアナウンスしていた。窓も開けられなほどの高放射線量の区間ということになるが、バスにも放射線量の測定器が積んであった。

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(写真4 代行バスに搭載されていた放射線量の測定器)

 通行できるのはこのバスが走っている国道6号線だけで、バスはその国道を直進していて、途中、停車すらできない。楢葉、大熊、双葉、浪江などとニュースなどでたびたび耳にした町を通り過ぎる。警戒中の警察車両と頻繁に行き違う。

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(写真5 沿道の住宅などはすべて矢来が組まれ封鎖されていた)

 沿道では、住宅のみならず工場もガソリンスタンドもすべて矢来を組んで閉鎖されている。交差する道路も厳重に封鎖されていて、辻々では警備員が警戒のため立哨している。生活が根こそぎ破壊されている様子がうかがい知れる。家がそこにあるというのに住めない無念さはいかほどか。放置された家々の中には朽ち始めているものも見受けられた。
 竜田と原ノ町を結ぶこの代行バスは1日2便のみ。それも1便目はこの9時35分発で、2便目は何と20時10分までない。東京から仙台までともあれ常磐線をつなげたという意味しかないような運行ぶりで、このバスに乗るために東京を早朝に発たなければならなかったのだった。

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(写真6 原ノ町駅)

 原ノ町に着くと、駅構内の側線には4両の特急車両が止まっていた。これは回送電車ではなくて、前後の路線が不通となっているため、身動きがとれずに震災以降そのまま留置されているもののようだった。なお、普通電車についてはその一部を陸上輸送して活用しているということだった。
 原ノ町からは再び鉄道。鉄道はやっぱりいい。スピード感が違うし、定時運行が保たれているし、安全性が高い。バスから乗り継ぐとそのことが実感されたのだった。
 しかし、鉄道が復旧しているのは相馬までのわずか4駅間だけ。ここで再び代行バスに乗り継いだ。

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(写真7 坂元駅周辺では復旧に向けて高架線の工事が進められていた。高架には「つなげよう常磐線」の標語があった)

 相馬から先は津波被害の影響で不通となっているのだが、バスは途中の5駅を各駅になぞりながら停車していく。国道6号線を進んでいて、駒ヶ嶺のように国道からそれて鉄道駅まで入っていくこともあるが、大半は国道添いの停留所を仮の駅にしているようだった。代行バスは亘理まで。ここからは鉄道はちゃんと仙台までつながっていた。

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(写真8 亘理駅)

 

駒ヶ嶺-浜吉田間線路付け替え

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(写真9 鉄道が復旧し高台移転の再開発が進む新地駅前)

 一方、津波被害から不通となっていた相馬-浜吉田間が復旧し運転を再開したのは2016年12月10日。
 この区間は新地駅、坂元駅で駅舎が流出するなどの津波被害が大きく、駒ヶ嶺-浜吉田間で線路を山側に移設するなどの大工事となった。この間、5駅18.8キロ。
 早速、同年12月24日乗りに出かけたが、このときももちろん原発周辺は不通のまま。それで、竜田から原ノ町までは代行バスを利用した。
 この区間の代行バスに乗るのは1年4カ月ぶり。事情は前回と変わらないが、少し振り返ってみよう。10時05分竜田発のバスは満席で、積み残した客はジャンボタクシーで送られたらしい。

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(写真10 代行バスの搭載されている線量計とパソコン)

 最前列の席だったが、通路を挟んだ隣の席には線量計とつながったパソコンがセッティングされていて、リアルタイムに放射線の線量がモニターに表示されていた。また、発車の際、車掌から「途中帰還困難区域を通るので窓の開閉は遠慮して下さい」とアナウンスがあり、原発事故の影響を身近に感じた。

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(写真11 国道沿いには「帰還困難区域」表示の看板)

 国道6号線をひたすら北へ走っているのだが、福島第二原発を過ぎたあたりから警察車両が目立って増えてきた。途中、第一原発を過ぎ双葉警察署のあたりで「1.5キロ先帰還困難区域」の表示が現れ、10時20分、「帰還困難地域」に入った。

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(写真12 封鎖された住宅。風化が激しい)

 ここからはっきりと様相が変わった。沿道の家々は矢来を組んで閉鎖されている。辻辻には警官が立哨している。しかし、国道を往来する交通量は多い。10時28分大熊駅付近、10時32分双葉町、10時38分浪江町などと続く。途中、双葉町の手前で「福島第一原子力発電所」の道路標識があった。今となっては恨めしい看板だ。

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(写真13 国道の途中に「福島第一原子力発電所」の標識)

 原発事故から満5年の年が暮れようとしているが、風化は激しくて、町は廃墟と化していた。
 そうこうして10時44分南相馬市に入った。ここで帰還困難区域は終了。バスの線量計は、帰還困難区域内ではピークが0.14μSv/hだったようだが、帰還困難区域を出たら0.06まで減少していた。それがどういう意味を表すのかわからないが、数値が変化していることだけは見て取れた。
 小高駅10時59分着。11時00分の到着予定に対しわずか1分ではあるが先着だった。
 なお、鉄道はここ小高駅からつながっているのだが、バスと列車との連絡が悪くて、私はそのまま原ノ町駅まで乗って行った。

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(写真14 原ノ町駅ホームに入線してきた仙台行き列車)

 運転再開区間相馬-浜吉田間への列車は原ノ町始発。11時50分発普通列車仙台行きに乗車。4両の電車。仙台行きだからだろうが、結構大きな編成だ。代行バスからの乗客はその大半が乗り継いだようだった。また、この日は土曜日だったが列車に空席が見当たらないほどで、運転再開で乗客が戻ってきたのだろうか。なお、この列車の仙台到着は13時10分である。
 鹿島、日立木を経て相馬12時07分。いよいよここから浜吉田までが運転再開区間である。特に、駒ヶ嶺の次、新地から坂元、山下までの3駅が新線に付け替えられた区間。かつては海沿いの区間だったが、1キロほど内陸側に移動した。

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(写真15 高台に線路が付け替えられ新築された新地駅ホーム)

 新地12時17分。真新しい駅舎だ。駅前の開発も進んでいる様子だった。そう言えば、相馬から同じボックス席だった高校生はこの新地駅で下車したのだが、(今まではバスを利用していたが)「めっちゃ早くなった。便利になった」と喜んでいた。

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(写真16 新しくなった坂元駅ホーム)

 坂元12時23分。ここも新駅である。駅前がきれいに整備されている。高架になっていて見通しがよい。乗り合わせた女子高校生にかつての線路のあったあたりを尋ねたら、その指さすところは眼下はるか先の海に近いところだった。また、見渡す限り更地になっていて、まるで家が見えない。そっくり高台移転したものなのか、あるいは都市計画がまとまっていないものなのかどうかその理由は判然としなかった。
 山下12時28分を経て浜吉田12時33分。ここまでが運転再開区間。運転が再開されるまで相馬から浜吉田の一つ先亘理間には代行バスが運行されていた。私は昨年2015年8月30日にこの区間をその代行バスに乗ったことがあった。
 代行バスは国道6号線を北上しながら走っていて、かつての駅に近そうなところを仮停留所にして走っていたが、なるほど海に近い区間だった。
  そうこうして亘理12時38分。列車はそのまま岩沼を経て仙台へと向かう。大半の乗客は仙台を目指しているようで、休日のこと、仙台と一直線につながった利便性はことのほか大きいのであろう。

竜田から富岡へ復旧

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(写真17 真新しくなった富岡駅)

 さて、ここまで部分復旧を重ねてきた常磐線。一駅だけだが竜田から富岡へと復旧したのが2017年10月21日。わずか6.9キロだけだが、帰還困難区域解除との兼ね合いだからこういうことになる。
 この区間には翌2018年1月26日に乗りに出かけた。わずか一駅だけの復旧だが、運転が再開されたとなればいても立ってもいられない。

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(写真18 ゆっくりと開発が進む広野駅付近)

 富岡行きの列車はいわきからの発車。途中、広野では、駅前に大きなビルが建ち、鉄骨工事の最中の建物もあって開発が緒に就いたように見えたが、ただ、ちょうど1年前にもここを通っているが、その時に比べ再開発が格段に進んでいるようには見えなかった。
 さて、竜田から次の富岡までが運転再開区間である。富岡駅はまったく新しくなっていた。10月21日の運行再開にあわせたもののようで、駅舎ばかりか駅前も、周辺の住宅も新しいものばかりで、事情を知らなければ、まるで大都市近郊の新興住宅地と見紛うばかりだった。

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(写真19 浪江駅前に到着した代行バス)

 この日もこの先仙台まで向かったが、代行バスの発着は竜田駅から富岡駅前へと移動した。代行バスが運行されているのは、富岡から途中は夜ノ森、大野、双葉の3駅を挟んで浪江まで20.8キロである。ただし、帰還困難区域の区間は、代行バスといえども途中停車することはできず、ノンストップで走り抜けた。
 代行バスは、かつては竜田-原ノ町間で、8駅46.0キロだったから、随分と短くなった。つまり、その分鉄道が復旧してきているということ。結局、私は代行バスには4度乗っているが、乗るつどバス運行区間が短くなっていることはうれしいこと。

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(写真20 浪江で発車を待つ仙台行き列車)

 浪江で代行バスから鉄道に乗り継ぎ、仙台に向かった。途中、津波被害に遭っていた相馬-浜吉田間が復旧したのが2016年の12月10日で、私は12月24日に乗りに来ていたが、いずれにしても、浪江から仙台まで鉄道がつながったことは画期的なことで、復興に大きな弾みとなっているものと思われた。