ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

広野駅で線路は封鎖

特集 常磐線復旧への軌跡②

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(写真1 上下線をまたぐ仮設の足場によって線路が寸断された広野駅=2011年12月30日)

原発事故で寸断された常磐線

 常磐線は、線区上は日暮里駅(東京都荒川区)から岩沼駅(宮城県岩沼市)を結ぶ全長343.1キロの長い路線。ただし、列車運行上は、日暮里方の列車は上野あるいは品川から、岩沼方も仙台発着が大半。路線は東京、千葉、茨城、福島、宮城の5都県にまたがり、途中、茨城県に入って日立あたりから太平洋に面する。
 沿岸部に至って東日本大震災の被害を大きく受けたが、それも、津波によるものばかりではなく、原発事故が甚大な被害をもたらした。つまり、常磐線は放射能の被害を直接受けた日本で最初あるいは世界で唯一の鉄道となったのである。
 2011年3月11日の被災から9年目。被災から常磐線は少しずつ復旧を重ね、復旧のできないところは代行バスを運行してつないできた。結局、全線で運転を再開できるまでに9年を要したわけだが、東日本大震災で被災した鉄道では最後の復旧となった。
 この間、私は復旧がどのように進んでいるのか、運転再開の区間ができるとその都度常磐線に乗りに出かけていた。
 特に関心を持ったのは原発被災地の様子。三陸には被災直後から度々出かけていたが、原発被災地にはなかなか足が向かなかった。しかし、原発被害とはどういうものなのか、自分の目で確認したくて常磐線に乗りに出かけた。

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(写真2 当時の広野駅のたたずまい)

 2011年12月30日。上野発の特急列車を水戸で普通列車に乗り継ぎ、人身事故の影響などもあって広野到着が11時20分。この時点で、常磐線の運転はここまで。この先原ノ町までの区間は原発事故の影響で不通となっていた。線路はつながってはいるのだが、立ち入ることばかりか通過することもできない。広野から先の線路はさび付いていた。広野は上野から234.6キロ、水戸から117.1キロ、いわきからなら23.0キロの地点である。

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(写真3 広野から先は不通。線路はさび付いていた)

 広野では、タクシーで原発にできるだけ近づけるところまで行ってもらったのだが、ほんの10分ほど走ったところで行き止まりになった。

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(写真4 20キロ圏で封鎖されていた国道6号)

  広野駅は、第一原発から約24キロの距離に位置しており、20キロ圏で国道6号線は封鎖されていたのだ。この先は警戒区域となっており、封鎖地点には多数の警察車両が配置され、警察官が検問を行っていた。

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(写真5 警戒区域への中継基地となっていたJヴィレッジ)

  また、この封鎖地点のそばにはJヴィレッジという広大なスポーツ施設があって、このときには警戒区域に入る関係者の中継基地となっていた。ここで防護服に着替え、帰ってってきたらここで除染するということだった。
  タクシーに広野の町を一回りしてもらったが、走っていて気がついたこと。きれいな家が建ち並んでいるのだが、人っ子一人見かけないし、生活臭が感じられない。どうやらみんな空き家なのである。20キロ圏の外側は強制避難は解除されたが戻ってきた人は1割にも満たないのだという。
 大震災後、三陸には二度入ったが、どこも津波で壊滅して焦土と化し、呆然とする風景だった。
 しかし、ここの風景も恐ろしい。家は傾いているわけでもないし、カーテンも引かれている。それと気がつかなければ穏やかな風景だ。しかし、まるでゴーストタウンなのである。
 タクシーの運転手が言う。「津波の被災地は時間と金をかければ復旧するだろう。しかし、ここに元の生活が戻ることはないのではないか」と。運転手は穏やかな老人で、この運転手にはあれこれと尋ねたのだが、原発の話になると憤りが高まるようだったし、悔しさがにじみ出てくるようだった。