ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

荻原浩『海の見える理髪店』

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直木賞受賞作の短編集

 直木賞受賞作である。短編6編が収められている。
 どれも珠玉の作品ばかりで印象深いが、表題作の「海の見える理髪店」は、海辺の小さな町の床屋が舞台。時代遅れの洋風造り、人が住まなくなった民家を改装したような店構え。
 「店の中は古びた外観を裏切るたたずまいだった。こぎれいで、清潔で、整然としている。浮かし模様のある白い壁紙はアイロンをあてる前の洗い立てのシーツのようで、よく磨かれたダークブラウンの床はスケートリンクにだって使えそうだ。ラベルの向きがきちんと揃えられた薬剤の容器が、完璧主義の演出家に立ち位置を決められた舞台役者に見えた。」
 こう読み出すともう深い情感に包まれたようで、ページをくくるのがいとおしくなってくる。
 ここに店を移して十五年、店主は高齢だが背筋はしゃきりと伸びている。大物俳優や政財界の名士が通いつめていたという数々の逸話がかつて世間の噂にした。
 人づてに評判が広まっていた頃、ある日、有名な俳優がふらりと店に来て、「ヤクザ映画に出るから、それらしい髪型にしてくれ」との注文。毛質が柔らかく難しかったのだが、工夫して慎太郎刈りの角刈り版といった感じにこしらえた。たいそう気に入ったようで、その後もたびたび来店しその俳優のトレードマークになった。
 床屋と客の話が続く。話術も床屋の腕のひとつ。しみじみとしたエピソード。黙って聞いていた客が、最後に、来週、結婚式があって、「その前に一度、いつもの美容室ではなく、きちんと床屋に行っておきたかった。それだけを語った」。
 小説家というものは物語を紡ぐのがうまいものだ。母との確執があって十六年も寄りつかなかった家に帰ってきた娘の悔恨を描いた「いつか来た道」などと引かれるような物語が多くて、ページをくくる手は容易にははかどらない。
(集英社文庫)