ABABA’s ノート

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髙村薫×南直哉『生死の覚悟』

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作家と禅僧の対話

 魅力的な組み合わせである。
 ディテールをないがしろにせず理詰めの作風で人気の作家髙村薫。近年は『晴子情話』三部作や『空海』などを著し、仏教への切り込みに新境地を見せている。対する南直哉(じきさい)は永平寺で修行を積んだ曹洞宗の禅僧であり、『語る禅僧』などと積極的に持論を展開してきている。
 髙村と南はこの対談が初めての出会いなそうだが、冒頭紹介されているエピソードが面白い。つまり、小説『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳く馬』と続く髙村の三部作で、中心にいる人物福澤彰之は、南直哉をモデルにしているのではないかと周辺から見られていたということ。もちろん髙村はこのことを否定しているのだが、そもそも髙村は、現実の企業や組織を描くについて、直接の取材は絶対にしないということを範として今までやってきたとのこと。
 なお、生死(しょうじ)について、岩波仏教辞典から引いた意味が巻頭に載っていて、「生まれることと死ぬこと。また、いのちのあるものが、生まれることと死を繰り返すこと」と示している。
 二人の対話は、2011年1月25日と2018年9月13日の二回にわたって行われている。
 まず、初めての対話から引いてみよう。
  一般的に、生の時間が途切れて死が訪れると思われがちですが、私の実感としては、生と死の時間は並行に流れている。むしろ死の重力がかからない生というのは、生ではないと思う。……
 ただある瞬間、その重力に負けそうになることがある。かくいう私も若い頃しばしばそのような状態に陥って、非常に困りました。だから、確信をもって言いますが、坊さんになっていなかったら生きていなかった。
 髙村 私や彰之が「生命を発見した」というのは、「生きていることはすばらしい」ということではありません。「生きることに前向きになった」というのでもありません。そうではなくて、ただ命がある。とにかく命が現前している。私の目の前に「死の門」があったように、ただそこに命がある。それ以上でもそれ以下でもない。とにかく命がある。そこに命があるということを知ってしまった。見てしまった、感じてしまった、ただそれだけのことです。……
 次ぎに、初めての対話から7年後に行われた対話からも引いてみよう。
 髙村 人間が関知する範囲では、自然災害にどんな理由もありません。ただたんに地震は起きる。台風は来る。それによって誰かが死ぬ。一方で、別のところではまた新しい命が生まれてくる——そのことを誰も説明できない。どんな理由もない。そうした中で、人は生き死にしているのだというのが、震災を経験した後の私の感覚です。
  その感覚は、仏教で言う「生死」と呼ぶものに近いですね。仏教では、生と死を分け隔てたものとしては扱わず、表裏一体のものとして考えますから。
 髙村薫にしても、南直哉にしても、その著作のほとんど全部を好んで読んできたが、本書は新書版200ページほどの手軽なものながら、わかりやすい言葉を紡ぎながら新しい仏教を模索している両者の〝声〟が聞こえたようで興味深かった。
 それにしても、髙村と南のお二人は、これまでの人生である種〝生き難さ〟を深く抱えているのだとも思えたものだった。お寺にお参りして手を合わせても、なぜ自分は手を合わせるのか、そんなことも考えてこなかった自分を知って面白かった。
(新潮新書)