ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

最北端の稚内からオホーツクの網走へ

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(写真1 稚内駅ホームで最長片道切符北海道版出発の記念撮影)

最長片道切符の旅北海道版第1日

 稚内には前日の内に入っておいた。旭川から鉄路で到着したのだが、本当は空路稚内空港に降り立ち、稚内駅は処女のようにとっておきたかったのだが、航空便は希望した日時は全て満席だった。まあ、稚内は4度目だし、新鮮さにこだわるほどのことでもない。
 稚内はちょうど夏祭りの最中で、泊まったホテルのそばで花火が打ち上げられていた。ドン、ドンと大砲のような大きな音がして、大輪の花が次々と夜空に舞った。湯上がりの浴衣姿で外で観ていると冷え込んできた。20度を少し超す程度らしい。稚内も今年の夏は暑いようだが、朝晩はさすがに随分と涼しい。
 稚内駅は数年前に建て替えられて新しくなった。日本最北端の駅として装いも新たにしたようだ。ホームが片側1線のみというのはやや寂しい。ホームの柱には函館から703.3キロ、東京から1547.9キロなどと表示がある。
 また、ホームの柵には「日本最北端稚内駅北緯45°25′03″」との木版が掲げられていたが、これは旧駅舎の玄関脇の壁に掲げられていたものではなかったか。また、旧駅舎時代には、線路は駅舎からさらに北へ伸びて車止めになっていて、稚泊航路へつながっていた往時を偲ばせていた。現在は、駅前の広場にその線路の一部が残されている。
 8月5日。さあ、いよいよ最長片道切符の旅北海道版の出発だ。最初は宗谷本線。9日までの長い旅の始まりである。ホームで記念撮影。若い女性にシャッターを押してもらった。
 6時36分稚内発旭川行き特急サロベツ2号。1日に3本しかない旭川方面行き特急の最初の1本。4両編成。青みがかったヘッドが特徴だ。宗谷本線は、旭川駅から稚内駅を結ぶ全長259.4キロの路線。非電化で、特急を含めて稚内発着の列車は、下りが6本、上りも7本に過ぎない。

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(写真2 右窓に見えるはずのサロベツ原野越しの利尻山=8月4日撮影)

 稚内を出ると、クマザサの生い茂る丘陵地帯を列車は走る。天候は曇り。抜海、兜沼などと走っていて、いつもなら右窓に利尻山が海に浮かぶように見えるはずなのに、霧が濃いのかまったく姿を見せない。利尻富士と呼ばれる美しい山容が、宗谷本線のハイライトなのに残念だ。昨日は旭川から稚内に向かった列車からは美しい姿を堪能していたのに。続いてサロベツ原野も見えてくるはずなのにこれも明確ではない。サロベツ原野の先に見える利尻山は、北海道絶景車窓風景ベスト5の一つと言えるはずだが、今日は楽しませてくれない。

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(写真3 悠久の流れ天塩川)

 その分、上幌延を過ぎたあたりからか、天塩川に寄り添うように進む。大河である。悠久の流れである。利尻山が宗谷本線のハイライトだとすれば、天塩川はもう一つの絶景である。宗谷本線と並行している区間は120キロにも及ぶのではないか。
 ところで、宗谷本線には、車掌車を駅舎に転用した例が多くて9駅も数えるようだ。それで、あらかじめ時刻表地図に印を付けておいて、該当する駅が近づくとカメラを構えて撮影を試みた。そうすると、8っつの駅で撮影に成功した。高速で通過する列車の窓からの撮影としては画期的成功率ではないか。
 音威子府(おといねっぷ)。何と旅情をかき立てる駅名か。かつてはここから天北線が分岐していて、オホーツク海岸沿いに南小樽へと向かっていた。また、日本海側には羽幌線もあったから、一筆書きで稚内を回ってくることができた。
 初めてこの音威子府駅を利用したときには、往きは宗谷本線で、帰途は天北線にしたのだった。しかし、すでに国鉄合理化の真っ最中で、駅構内には合理化反対の赤旗が幾本も翻っていた。SLの大きな雪像があったから、真冬だったのであろう。
 名寄。ここで途中下車。9時23分着。わずかの乗り継ぎ時間を利用して名寄公園に寄ってきた。かつてはここで名寄本線と深名(しんめい)線が接続していた。両線ともに乗ったことがあって、名寄本線ではオホーツクの流氷が見られたし、深名線は途中朱鞠内(しゅまりない)湖の湖畔を走り、とても幻想的なものだった。
 10時01分発旭川行き普通列車。快速列車で1両。車窓には田んぼが増えた。サロベツ原野付近では酪農が多かったから、大きな変化だ。

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(写真4 『塩狩峠』の舞台塩狩駅)

 途中、塩狩では駅に入る直前塩狩峠の木柱が立っていた。塩狩峠とは、その名の通り、石狩と天塩の境にあり、天塩川水系と石狩川水系の分水界でもある。三浦綾子の小説『塩狩峠』の舞台となった。
 標高は高いようには感じられなかったが、塩狩を出ると長いトンネルを下って平野になった。永山の手前で石狩川を渡った。
 永山で各駅停車に乗り換え。11時16分着。この一つ先の新旭川で石北本線へと乗り継ぐのだが、新旭川には生憎と快速は停車しない。
 長い待ち合わせ時間を利用して昼食と思い、駅前に出てみたがそれらしい店は見当たらない。駅からしばらくまっすぐ歩いて行ったら、途中に農協があり、その建物の一角がそば屋になっていた。それで、もりそばを頼んだのだが、これが実にうまい。そばもいいしつゆもいい。聞くと、江丹別産だという。思わぬところでいいそばに出会ったものだ。

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(写真5 宗谷本線と石北本線の分岐新旭川駅)
 さて、永山12時00分発。すぐに新旭川12時07分着。12時11分発上川行きに乗り換え。。わずか4分しかなかったが、3番線に着いて4番線に跨線橋で渡った。新旭川は旭川から二つ目の駅。石北本線はこの新旭川と網走をむすぶ234.0キロの路線。全ての列車は旭川発着で運転されており、旭川からなら特急列車に乗れるのだが、新旭川-旭川間が重複区間となってしまう。これが一筆書きのつらいところ。
 上川までこのまま進み、上川で特急大雪1号に乗り継いだ。13時17分着の13時27分発。上川駅には、髙梨沙羅選手のスキージャンプW杯通算優勝回数世界新記録を讃える横断幕が張られていた。

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(写真6 北海道標高最高地点上越信号場。かつては駅だった名残で駅舎が残っていた)

 少しして登攀を開始した。中越、上越と二つの信号場が続く。かつてはどちらも駅だったところ。上越信号場は北海道における標高最高地点である。643メートル。日本一高い地点である小海線野辺山駅の1.345メートルに比べ約半分ほど。
 下っていくと、奥白滝信号場までの間が石北トンネルで、白滝を挟んで上白滝、旧白滝、下白滝と3駅が3年前廃駅になってしまった。1日に停車する列車はわずか1本だったし、秘境駅としては知られていたが、乗降客もいなかったようだからやむをえないか。
 列車は山間を走っており、左右の車窓に変化はない。そうこうして遠軽。かつての名寄本線の始終点駅だった。紋別に向かう際に何度も利用したが、ここはスイッチバック駅で、列車は進行方向を反転した。

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(写真7 女満別を過ぎて左窓に見えてきた網走湖)

 留辺蘂、北見、美幌などと続き、女満別を出ると左窓に網走湖が見えた。もう網走は近く16時35分に到着した。
 結局、この日は線区の数としては宗谷本線と石北本線の二つだけだが、489.7キロほぼ10時間の乗車となった。駅前のホテルにチェックインしたあともしばらくからだが揺れていた。

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(写真8 第1日目の終着網走駅)