ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

本州最東端魹ヶ埼灯台紀行

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特集 私の好きな岬と灯台10選

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(写真1 本州最東端に立つ魹ヶ埼灯台)

日本で最も美しい灯台

 魹ヶ崎の突端に立って遮るもののない大海原を見ていると、しきりに船舶が往来している。どこから来てどこに向かうのか、何を積んでいるのか、船からは岬に建つ魹ヶ埼灯台はどのように見えているのだろうか。そんなとりとめもないようなことを思い描いていると時間の経つのも忘れてしまう。
 日本地図を広げて、東京あたりから海路北海道へ向かおうとすると、犬吠埼、塩屋埼、金華山から魹ヶ埼を経て尻屋埼を抜けるということになろうかと見て取れる。この場合、船舶は陸岸から等距離の間を置いて進むのであろうか。あるいは、出発地と到着地の最短に進路をとるのであろうか。もし、最短進路なら、この間、最も陸地に近づくのは魹ヶ埼ということになろう。何しろ、魹ヶ埼は本州最東端なのである。
 私は岬に立って1時間でも2時間でも飽かず海を眺めているのが好きなのだが、往来する船舶にはどうやら航路というものがあらかじめ定められているということがわかってきた。漁船などの小型船舶は陸岸沿いに走っているし、タンカーや貨物船などは水平線ぎりぎりになる遠いところを航行している。また、外洋を航海する大型フェリーはタンカーなどよりはずっと沿岸に近くて、船腹に大きく書かれているフェリー会社のマークが読み取れる程度の沖合だ。
 航路は、原則的には2地点を結ぶ最短距離をとるようだが、航海の安全性を第一に、潮流や水深、天候などに経済性も加味して決定しているようで、フェリーなどのような定期便には固定的な航路が設定されているようだ。
 昔、レーダーなどさほど発達していなかった時代、海図で同じ水深をなぞるように航路をとっていたこともあったようで、これを等深線航法と呼んでいた。水深200メートルなどと等深線を引くと、最も岬に近づくのは魹ヶ埼だったという。何かで読んだことがあるが、タンカーなどは15キロから30キロも沖合を航行しているという。
 現実に、例えば、茨城県の大洗港と北海道の苫小牧港を結ぶフェリーはどのように航路を決定しているのであろうか。もちろん、最短を走るようにはしているのだろうが、さんふらわあ号を運航する商船三井フェリーに問い合わせたところ、ほぼ陸岸から5キロ沖合に航路を設定しているとのこと。随分と近いということになる。この会社は親切で、普段問われることのない意表を突く質問だったのだろうが、きちんと調べて回答してくれた。
 なお、ここからは私見だが、フェリーは乗客と自動車を載せて走っている船。大洗-苫小牧間は754キロ、約19時間の航海。乗客へのサービスも含めて灯台も見えるできるだけ陸岸に近いところを走るようにしているのではないか。夜の航海で、港の灯りが見えるというのも情緒のあること。
 魹ヶ崎(とどがさき)。何と神秘的な響きか。この頃の岬はどこも開けてしまって、灯台は観光地となっているところが少なくないが、ここ魹ヶ崎は今でも秘境性が強く、そのことがまずは第一の魅力。また岬に建つ魹ヶ埼灯台の何と美しいことか。白堊の大型灯台である。なお、国土地理院が定める岬名は崎とし、灯台名は海上保安庁が定めるところから埼とする例は多い。
 魹ヶ崎は、南北300キロに及ぶ三陸海岸のほぼ中間に位置する。重茂(おもえ)半島の先端にあたるのだが、岩手県の地図を広げても、重茂の半島性に気づく人は少ないかもしれない。大まかな地図ならなだらかに陸地が連なっているように見えるのである。
 しかし、子細に見ると、北には宮古湾、南には山田湾が入り込んでいる。このことによって重茂は半島と呼ばれているのだが、それでも、鋭く突き出ているわけではなく、せいぜい大きな腹が出っ張っている風である。
 北上山地がここで太平洋に尽きたようにも見え、重茂半島の中心には海抜465メートルの魹山がある。岬は実に荒々しい岩礁で成り立っているのだが、面白いことに、ちょうどこのあたりで三陸海岸は地形が北と南に別れるようだ。つまり、北は海岸段丘による隆起海岸だし、南は溺れ谷が形作った沈降海岸なのである。ということは、リアス式海岸はこのあたりから南ということになる。煩く言えば、三陸海岸は全てリアス式というわけでもないのである。

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(写真2 魹ヶ埼灯台への登り口)

 魹ヶ﨑への道のりは険しい。宮古駅から車で約1時間で姉吉の集落。昔はここまでバス便もあったが今は廃止されてしまった。さらにそこから30分ほどで岬への登り口。漁船が数隻の小さな水揚げ場があり、「魹ヶ埼灯台への自然歩道入口」との立て札があり、灯台まで3.8キロとあった。〝熊〟に注意との立て札もあり、また、この場所には清掃の行き届いた公衆トイレもあった。
 出発するといきなり急登坂が続く。荷物は車においてカメラだけ担いでいるのだがつらい。日頃の不摂生を呪う。5分10分とあえぎなら登る。もう無理だ、引き返そうかと何度も思う。しかし、この岬は初めてではなし、この登りは覚悟をしていたし、また、スタートしてすぐのこの登り坂を張り切りすぎるとこの先の長い道のりがさらにきつくなることも知っていたから、イーヴンペースでしっかりと登っていった。

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(写真3 林の切れ間からのぞかせる碧い海と緑の林)

 高低差110メートルを一気に登り、このきつい登り坂を過ぎると、後は緩やかなアップダウンとなる。山腹に取り付けられた道は幅1メートルほど。落ち葉が敷き詰められていて、まるで絨毯のようなふくよかさ。林に遮られているから必ずしも視界が開けることは少ない。足下から潮騒が遠く聞こえてくる。小鳥が鳴いている。カッコウの鳴き声もこだましている。静謐で気持ちのいい道のりだ。樹林にはクリなどブナ系が多いようだ。

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(写真4 魚つき保安林の看板)

 途中に、営林署が立てた魚つき保安林の看板があり、「この森林は魚にいこいの場と餌を補給する役目を果たしています」と記してあった。畠山重篤さんの好著『森は海の恋人』を思い出した。この本は森と海の関係を説いたものだった。

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(写真5 ところどころに立っている標柱。ここで魹ヶ埼灯台まで1.5キロとある)

 ところどころに標柱があって、魹ヶ埼灯台まで1.5キロなどとある。
 灯台が近づいた頃と思われたあたり、深い入り江があって、キスゲであろうか、黄色い花が咲き乱れていた。

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(写真6 キスゲであろうか、黄色い花が咲く深い入江の美しい風景)

 そろそろかなと思い、今か今かと期待していたところ、波の音が大きくなったと感じたら、唐突に視界が開け、眼前に白堊の灯台が現れた。どきっとして、茫然とする。涙が出てくる。そして感動する。登り口からちょうど1時間の道のりだった。
 そう言えば、一か月ほど前に横浜市で開かれた灯台フォーラムで元灯台守だったという鈴木照秋さんとお話しする機会があって、鈴木さんは魹ヶ埼に赴任していたことがあると言い、私が日本で一番好きな灯台は魹ヶ埼灯台だと話したら話が弾んで、魹ヶ埼に向かう道のりは始めの登りがとてもきつかったし、最後にはいきなり灯台が目の前に現れてびっくりしたものだと話されていたが、私もまったく同じ感動を経験していたからとてもうれしかった。
 また、鈴木さんのお話では、家族は宮古市街において、一週間交替で勤務していたのだということだった。厳しい灯台守の生活と業務がうかがい知れるが、使命感が支えていたものであろう。なお、鈴木さんは親子二代目だということだった。鈴木さんの最初の任地は襟裳岬灯台だったといい、これも私の大好きな灯台だったから話が尽きなかった。

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(写真7 荒々しい岩礁の上に建つ魹ヶ埼灯台)

 魹ヶ埼灯台の何と美しいことか。姿のいい真っ白な灯台がすっくと建っている。岩礁の上に建つロケーションといい、日本で最も美しい灯台ではないか。
 背の高さ(塔高=地上-塔頂)は34メートル。日本一高い出雲日御碕灯台の43.65メートルよりは低いが、白堊の灯台として高いことで知られる尻屋埼灯台や犬吠埼灯台よりは高い。43メートルの稚内灯台に次いで日本で3番目ではないかと思われる。

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(写真8 魹ヶ埼灯台から見た太平洋。沖合を航行している船は巡視船か)

 灯台のそばには四阿(あずまや)が設けてあった。眼前には太平洋が大きく広がっている。私が基準としている測り方で表現すると、両手を広げて余るほどだから、240度もの眺望であろう。なお、きちんとしたトイレも設置してあって、こういう施設はかつてはなかった。

 魹ヶ埼灯台の魅力とはなんだろうか。探訪が容易ではないという秘境性がまずある。約1時間の道のりで行き違う人が一人もいなかった。つまりそういうところだということ魹ヶ埼灯台は。灯台紀行などという本にも載っていないものがあるほどだ。
 そして灯台の純白の美しさ。まるで貴婦人のような姿だ。岩礁の上に一人たち海を照らし続ける孤高さ。
 この岬を訪れたのはこれまでに4度。初めは高校生時代の夏休みで、この時は宮古の白浜というところにテントを張って翌日の踏破に備えていた。全ルート徒歩旅行だったのだが、しかし、どこで道草を食ったものか、帰途山田に向かう途中で暗くなってしまった。岬への旅はいつも一人だった。
 そして再訪は1990年6月16日だった。この時のノートには「途中、まったく途絶えていた波の音がまた聞こえてきたらそこが灯台だった」とある。
 この当時は職員が常駐し灯台を見学させてくれていた時代で、バルコニーに登らせてくれた。ノートには〝階段136段〟とある。
 この時案内してくれたのが坂井宣之さんという方で、この年の春に海上保安大学校を卒業したばかりの若い灯台守さんだった。北海道出身23歳、顎髭の似合う凜々しくも頼もしい青年だった。坂井さんによれば、灯台の生活は一週間交替で、宮古の事務所と交互の勤務だとのこと。三人で宿直をしていて、食事も三人が交代で作るのだという。
 このことはこの時のノートをひもといて思い出したのだが、あれから29年、まだ現役で働いている年齢だが、どうしているものか。写真も1枚撮らせてもらったが、ここに載せていいものかどうか。
 そして、直近の4度目は2016年7月1日だったが、何度訪れても魹ヶ埼灯台の印象は少しも変わっていないことに新鮮に驚いた。つまり、魅力ある灯台がそのまま保たれているということで、これはうれしいこと。
 気がついてみれば、魹ヶ埼灯台は、私の岬好き灯台ファンの原点だったのである。

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(写真9 本州最東端の碑。「喜びも悲しみも幾年月」の原作者田中きよさんの筆。田中さんは灯台守の夫とここ魹ヶ埼灯台で7年間過ごしたという))

<魹ヶ埼灯台メモ>(「灯台表」等から引用)
 航路標識番号1647(国際番号M6598)
 名称/魹ヶ埼灯台
 所在地/岩手県宮古市重茂
 位置/北緯39度32分8秒 東経142度04分3秒(世界測地系)
 灯質/単閃白光毎15秒に1閃光
 塔高/34メートル
 灯火標高/58メートル
 レンズ/第3等大型フレネル式
 実効光度/53万カンデラ
 光達距離/20.5海里(約38キロ)
 塗色・構造/白色円塔形コンクリート造
 初点灯/1902年3月1日(鉄骨造)。歴史/1945年太平洋戦争で破壊、1950年再建(コンクリート造)、1996年無人化
 管理事務所/第二管区海上保安本部釜石海上保安部
<お断り> ABABA'sノートは、これまで月曜から金曜まで毎日(土休日除く)記事を投稿してまいりましたが、本日7月1日からは土日月の週3回の投稿に変更します。なお、この際、これまでのような日記調主体の記事に加え、特集記事等も投稿してまいりたいと思っております。