ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

定点観測地点田老へ

f:id:shashosha70:20190404164615j:plain

(写真1 2019年3月26日震災8年目の田老)

8年目の被災地を訪ねて③

 宮古からはさらに北上を続け田老を目指した。宮古-田老間は、鉄道なら路線距離12.7キロ、約19分、自動車でも約20分のところである。現在は宮古市に編入されている。

f:id:shashosha70:20190404164719j:plain

(写真2 2011年5月10日震災間もないまるで焦土と化した田老)

 震災後初めて訪れた被災地が田老だった。宮古から三陸海岸特有の小さな岬をトンネルで抜けながら田老を眼下にしたときの衝撃は今に至るも忘れられない。町は壊滅していたのである。茫然として、なぜか悔しくて体が震えるようだった。
 私には、被災地に親戚がいるとかそういうことではなかったし、格別のボランティア活動を行っているわけでもなかったが、被災地の様子を伝えることで私なりの復興支援だと思って毎年被災地にやってきた。
 ほぼ毎年同じところを同じように巡っていて、特に田老は必ず訪れていて定点観測を行っているようなものだった。

f:id:shashosha70:20190404164817j:plain

(写真3 瓦礫に国旗が……)

 初めて訪れたときは、瓦礫の山だった。いつになったら片付くのか途方もないように思われた。瓦礫には国旗を立ててあるところもあって、聞けば、亡くなった人が見つかったところだということだった。
 鉄骨造の商店だったために、梁にしがみついて難を逃れたという主人は、「真っ黒い波だった。恐かった。助からないと思った」と語りながら、「それでもやっぱり田老がいい」と話していたのが印象的だった。この商店はいち早く復旧していて、瓦礫の中にポツンとついた灯りは、地元の主婦たちにいわせれば「真っ暗な闇に点いた灯りは心強い」ということだった。
 復興は手早くは進まなかった。丘の上にあって被災を免れた役場でお話を伺うと、復興計画をまとめるのが大変だということだった。海辺を離れたくないという人々が多いようで、漁業の町らしかった。
 田老の防潮堤は、高さ10メートルが延べ2.4キロにもわたって二重に築かれていて、これは過去の津波体験から町を守ろうとしてきたもので、地元にとっては〝万里の長城〟といって自慢してきたものだった。それがこのたびの津波はこの防潮堤をあっさり越えて襲来したのだった、それだけではない、防潮堤はまるで小さなブロックのように砕かれて転がされていたのである。唖然とする光景だった。

f:id:shashosha70:20190404164916j:plain

(写真4 高台移転した住宅街。まるで大都市近郊のベッドタウンのようだ。2017年6月27日)

 現在は三重目の防潮壁も築かれているし、平地には野球場や商業施設を集め、住宅は高台に移転した。こうした措置は実は被災地の中では早かったもので、その分、復興も早く進んだ。高台に移転した住宅地は規模の大きなもので、まるで大都会の近郊住宅街の様相だった。
 初めて田老を訪れた日、すでに三陸鉄道は北リアス線を走らせていた。三鉄は運行可能なところから復旧を重ねていたのだが、田老の駅で見守っていると、「復興支援列車」がやってきた。鉄道の走ることの心強さを痛いほど感じたものだった。
 三鉄は地震発生からわずか5日後には列車を運行していたし、地元に寄り添いながら、地元の支援を受けながら粘り強く復旧を重ねてきた。北リアス線、南リアス線の復旧が終わったのは2014年4月6日だった。復興のためには一日も早く鉄道を走らせる。その熱意が旧山田線を引き受け、久慈から盛まで163キロもの三セク最長となる長大路線を完全復旧させたのであろう。

f:id:shashosha70:20190404165016j:plain

(写真4 田老駅に入ってきた「復興支援列車」。2011年5月10日)