ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

8年目の被災地を訪ねて①

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(写真1 陸前高田で14メートルもかさ上げされた台地)

陸前高田から釜石へ

 岩手県の三陸沿岸が北から南まで鉄路でつながった三陸鉄道リアス線163.0キロを通常営業2日目の3月25日に久慈から盛まで一本で乗り通したが、翌26日には、レンタカーで逆コースを北上、東日本大震災8年目の被災地を詳しく巡った。
 震災直後から毎年被災地を訪れて被災の状況と復興の様子を見つめてきていて、いつもほぼ同じところを回ってきたから、言わば定点観測をしているようなことだった。
 特にこのたびは、実際に復旧した鉄道に乗ってみたことと、沿線を自動車に乗ってフォローしたことによって、随分と得がたい体験となったのだった。
 ところで、レンタカーは大船渡からスタートしたのだが、前日にはBRTで陸前高田を訪問していて、実質的な起点としていたのだった。
 陸前高田は、ほぼ壊滅的な被害に見舞われた。これは、リアス式海岸の都市にあって珍しく平野部が広かったからで、このことが津波被害を甚大なものにした。
 復興に際して陸前高田が行った計画は実に遠大。市街中心部を約14メートルの高さにまでかさ上げしたのだ。このために山を一つ崩して、ベルトコンベアで土を運んだのである。数キロに延びたベルトコンベアは陸前高田における復興事業を象徴していた。

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(写真2 台地の上から見下ろすと平地はまるで谷底。被災した4階建てのビルの屋上がちょうどかさ上げ高さである)

 そのかさ上げされた台地に立ってみると、ここがかさ上げされた場所であるとは咄嗟には判断つきかねた。それほど広大なのである。バスが行き交い、大きなショッピングセンターが建っている。
 かさ上げされた台地の縁に立ってみると、かさ上げされた高さと規模が実感できた。まるで谷底をのぞき込むような感覚だった。かつての平地に建っていた4階建てのビルにちょうど高さが相当していた。
 陸前高田の復興工事はまだまだ土木工事の段階。見渡す限り市街地の7割近くでブルドーザーが動いていた。堤防工事はほぼ終了したようで、ここも高さは14メートルになるのであろうか、高い防潮堤がぐるっと街を取り囲んでいた。だから、市街からは海は見えなかった。
 かさ上げされた台地上では、公共施設や商業施設は建ってきているものの、一般の住宅はあまり見かけなかった。
 地元の人たちが何度も議論を重ねて結論を出したはずで、よそ者が軽々しく口を出すことではないが、こうした壮大なかさ上げ以外にほかに有効な震災対策はなかったものだろうかと自問はした。震災後毎年一度以上は必ずこの地を訪れていてそのつどこの考えを強くしたことは確かだ。
 陸前高田をあとに大船渡に向かう途中、国道45号線の沿道に5階建てのアパートがあった。津波で襲われたもので、4階までがぶち抜かれていて、5階だけが被害を最小にとどめていた。わずか1メートルほどの差で天と地が分かれており、地震と違って津波の冷酷な恐さである。震災遺構として遺す予定なのかも知れない。
 大船渡からはレンタカーで移動した。大船渡に入ると、復興工事がぐんと進んでいることが見て取れた。

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(写真3 延々と伸びる大船渡の防潮壁)

 防潮堤の工事はほぼ終了したようだ。高さ10メートルほどの分厚い壁が延々と連なっている。
 街の中心街では、BRT大船渡駅を中心に銀行やホテルが進出していて、飲食店のしゃれた店舗が軒を連ねていた。
 大船渡はもともと海沿いの商業地と、高台の住宅地によってなり立ってきた街のようで、平地に住宅は少なく、住宅は高台を上へ上へと伸びている。

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(写真4 眼下は大船渡駅付近。住宅は山裾の高台へ登っている)

 大船渡からは釜石へ。目抜き通りの商店街も津波の甚大な被害となったのだが、復興はとても早くて、表通りを歩いている限りでは震災の爪痕も感じられなかった。それよりも鉄とラグビーの町らしく、鵜住居のラグビー場で開催されるワールドカップ大会への関心が高まっていた。

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(写真5 震災の爪痕も感じられない釜石市街目抜き通り)