ABABA’s ノート

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池澤夏樹『終わりと始まり2.0』

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率直な時評で人気のコラム

 朝日新聞に連載されてきた時評を中心としたコラム集の第二集。2017年末までの4年分が収録されている。
 連載が一か月に1度という頻度がいいようで、世の動きを一か月ごとに区切り、その中からテーマを選び、それに関わる情報を収集して、考えたことをコラムにまとめるというやり方でやってきたと著者は述べていて、言わば「一か月を単位として現代史を追ってきた」ということ。
 時評が中心だから内容的には、東日本大震災のこと、原発事故のこと、憲法のこと、沖縄のこと、トランプ大統領のことなどに関することが取り上げられている。いろいろなことに及んでいるから、いろんなことを考えさせられる。
 「名誉ある敗北」(2013年8月6日)で、戦争責任を問うことは大事である。どこで誰がどう間違ってあんな結果になったのか、そこに至る判断の一つ一つが検証されなければならないとした上で、
 「その一方で、恥辱の思いをどう扱って我々は今に至ったのか、それを考えることも必要ではないか。
 「若い論客が卓見を述べている。『永続敗戦論』(太田出版)で白井聡は、日本人は「敗戦」をなかったことにして「終戦」だけで歴史を作ってきたと言う。強いアメリカにひたすら服従、弱い中国と韓国・北朝鮮に対しては強気で押し切る。その姿勢を経済力が支えてきた。彼が言う「永続敗戦」は戦後の歴史をうまく説明している。経済力の支えを失った今、我々はやっと事態を直視できるようになった。
 「これからの衰退の中で名誉ある敗北を認めることができるだろうか。安倍政権のふるまいと選挙の結果を見て思うのは、我々があまりにも欺瞞に慣れてしまったということである。」と結んでいる。
 日本人は責任をとらない国民とはよく指摘されることだが、言い逃れの多いことも国民性で、小出しに言い逃れをするから終いには大きな墓穴を掘ってしまう。それにしても、敗戦を終戦と言い換えるなどは図太い言い逃れだ。
 「弱者の傍らに身を置く」(2014年8月5日)で、昭和天皇は史上初めて敗者として異民族の元帥の前に立たされた。この人について(名著『レイテ戦記』で戦争責任を追及した=筆者)大岡昇平は「おいたわしい」と言った。一人の人間としての昭和天皇の生涯を見れば、大岡の言葉はうなずけるとした上で、
 「八十歳の今上と七十九歳の皇后は頻繁に、熱心に、日本国中を走り回っておられる。訪れる先の選択にはいかなる原理があるか?
 みな弱者なのだ。
 「今上と皇后は、自分たちは日本国憲法が決める範囲内で、徹底して弱者の傍らに身を置く、と行動を通じて表明しておられる。お二人に実権はない。いかなる行政的な指示も出されない。もちろん病気が治るわけでもない。
 しかしこれほど自覚的で明快な思想の表現者である天皇をこの国の民が戴いたことはなかった。」と結んでいる。
 あまりに率直で、この連載は朝日だから続いたのであって、毎日はともかく、読売ではこうも長くは続かなかったのではないか、そのように思えたのだった。
(朝日新聞出版刊)