ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

勝浦湾を抱く八幡岬

f:id:shashosha70:20180702164908j:plain

(写真1 勝浦灯台から望んだ八幡岬全景)

外房の岬と灯台を訪ねて③八幡岬

 太東埼灯台から勝浦灯台と巡った帰途、八幡岬(はちまんみさき=千葉県勝浦市))を訪ねた。勝浦灯台から眺めた八幡岬が断然魅力的に見えたからで、岬好きとしては寄らないわけにはいかない。実際、訪れてみると実に素晴らしい岬だったのだ。
 勝浦灯台からはいったん途中まで下りながら回り込み再び登っていくと八幡岬だった。この間わずかに5分ほど。大きくは勝浦灯台も八幡岬も同じ半島にあるものと言え、半島から二本の角が太平洋に突き出ているようにも思える。
 岬全体は八幡岬公園として整備されていて、車が乗り入れられる突き当たりに大きな駐車場があった。
 ここから階段を登っていくと途中に結構な広さの子供広場があって、遊具や清掃の行き届いたトイレなども用意されてあった。

f:id:shashosha70:20180702165012j:plain

(写真2 八幡岬の展望広場。左はお万の方の像。奥は勝浦灯台)

 この広場からさらに階段を登っていくと一気に展望が開けた。展望広場である。太平洋が大きく眺望でき、鋭い岬の劈頭に立つという爽快感がある。思わず両手を飛行機のように広げて飛び込みたくなる誘惑に駆られる。岬の突端に立つといつも感じられることだが、これまでは幸か不幸かそういう仕儀にはならなかった。
 この岬は、三方を海に囲まれまるで石器時代の矢じりのようにも見られ、海蝕にさらされ荒々しい表層となっており勝浦灯台側から眺めたときには海岸段丘かと思われたが果たしてどうか。
 70メートルほどの断崖絶壁になっていて、左前方には勝浦灯台が望まれ、右手には勝浦湾が見えている。つまり、この八幡岬は勝浦湾を抱くように伸びているということになるようだ。房総半島の中でも盛んな漁港で知られる勝浦漁港は右手足下であろうか。
 それにしても、勝浦灯台はなぜこの八幡岬の突端に建てなかったのであろうか。ふとそのような疑問が湧いた。犬吠埼と野島埼の中間にあって勝浦灯台の重要性は早くから認識されていただろうからなおさらだ。
 一つ考えられたことは、この八幡岬の突端は鋭すぎて狭隘であり、灯台建設に向かなかったのかもしれない。また、ここは勝浦城址でもあり、貴重な遺跡を破壊することを敬遠したということもあったのかも知れない。素人ながらにそのように考えてみた。
 その勝浦城址。子供広場に碑石があって、それによると、天文11年(1541)頃から勝浦正木氏の居城となったとあり、三代頼忠の娘は徳川家康の側室お万の方(養珠院)とあった。なお、お万の方は紀州徳川家初代頼宣、水戸徳川家初代頼房の母として知られる。
 また、お万の方は、これより前の一族内乱のおり、難を逃れるために絶壁を布を伝わって下りたという「お万布ざらし」の伝説があると記してあった。展望広場にはこのお万の方の像が建っていて、勝浦市街の方角を見守っているようだった。
 岬好きの灯台ファンとしては、勝浦灯台から八幡岬が眺望でき、八幡岬からは勝浦灯台が遠望できて、それぞれの岬と灯台の様子が観測できたことは喜ばしいことで、とくにこの八幡岬で岬の情緒を味わうことができてよかったとつくづく思ったのだった。

f:id:shashosha70:20180702165121j:plain

(写真3 勝浦城址)