ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

原尞『それまでの明日』

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探偵小説の復権
 待望の新刊である。14年ぶりだという。デビューから30年になるか、処女作『そして夜は甦る』から『私が殺した少女』『さらば長き眠り』などと好んで読んできた。ただ、いかんせん寡作で、この頃ではもう筆を折ったのかと思っていた。
 しかし、見事な復活で、私立探偵沢崎が帰ってきたし、日本のハードボイルドがよみがえった。警察小説全盛の今日、本格的な探偵小説に醍醐味がありかえって新鮮ですらある。
 西新宿にある渡辺探偵事務所をある紳士が訪ねてくる。応対した沢崎に、依頼人は消費者金融ミレニアムファイナンスの新宿支店長渡辺皓一と名乗った。依頼内容は、赤坂の料亭業平の女将平岡静子の私生活を調べて欲しいというものだった。融資のための調査ということだった。
 早速調べてみると、静子は1年前に死亡しており、妹の淑子が跡を継いでいたことが判る。
 望月からは、微妙な社内事情も絡むので沢崎からは連絡をしないで欲しいと釘を刺されていたが、静子がすでに亡くなっていたとなるとこの先の調査はどうするのか、沢崎は望月の会社を訪ねる。
 ところがあろうことか、沢崎がミレニアムファイナンスを訪れていたその最中、二人組の強盗が押し入ってきて、沢崎も閉じ込められえてしまった。しかし、金庫を開けることができる支店長は留守だという。帰社予定時間の午後6時を過ぎても支店長は帰ってこない。どうしたことか。しかも、支店長の望月は沢崎を訪ねてきた依頼人とはどうやら別人と判明した。
 よく組み立てられたミステリーだ。全編緩むところがなく、最後まで惹きつけられる面白さ。望月を騙った依頼人は誰なのか。依頼内容にどのような意味があったのか。行方不明になった支店長の望月はどうなったのか。銀行が警察立ち会いの下に開けた金庫に隠されていた4億とも5億とも見られる巨額の資金はどういう金なのか。
 沢崎シリーズ常連の新宿署警部錦織、暴力団清和会の橋爪らが絡んで物語は豊かに膨らんでいく。
 現在の日本で警察小説が全盛となっているのは、探偵小説では得られないリアリティが表現できるからではないか。探偵小説では限界を感じたのではないか。
 ところが、本作を読むとそれはハードボイルド作家、ミステリー作家たちの怠慢だったのだ。
 原尞が見事に探偵小説を復権させ、日本のハードボイルドを復活させたのだ。日本でチャンドラーがよみがえったのだ。
 本作を読んで感心するのは、リアリティがしっかりしているし、いかにも創作の魅力を感じることで、探偵小説にリアリティが弱いということは、創作能力の問題だったのだ受け止められた。昨今流行りの警察小説と決定的に違うところは、原尞の探偵小説にはたしかな生活実感というリアリティがあったのだった。
 沢崎の存在感が断然いい。うらぶれた探偵事務所。渡辺謙吾から引き継いだたった一人の事務所だ。50歳、かっこよさは微塵もない。しかし矜持はある。時流には一歩距離を置いている。携帯電話すら持っていないのだ。
 登場人物たちが評する沢崎像を引用しよう。
 本作では橋爪の部下の相良がいい役をやっていて思わずじわっとしてくるのだが、そこを引用すると長くなってしまうのではしょるとして、沢崎の紹介を依頼された相良が沢崎への対応について「気取ってもダメ、駆け引きはもっとダメ、嘘をついたら絶対ダメ」と語る場面があって、肉体派の暴力団にすら一目置かれていることがわかる。
 これは相良に限らず、あれほど毛嫌いしている関係にある錦織警部にも、橋爪にすら信頼されているふしがある。
 沢崎の身上調査を依頼された同業の興信所が、沢崎ほど頼りになる探偵は滅多にいない、良くも悪しくも、とまで述べている。
 こうした沢崎を引き立たせているのは味わい深い、時にしゃれた文章だ。思わずにやりとすることたびたびだ。幾つか引いてみよう。
 どこかで再開発の波と近年の不況の波が鉢合わせになり、にぎわったらいいのかさびれたらいいのか、街そのものが思案投げ首といった格好だった。
 消費期限の切れた炭酸飲料のあぶくのような徒労感だけだった。
 戦力外通告を受けたスポーツ選手のように覇気のない薄曇りの陽射しの中を、
 相手を不安な気持ちにさせるための刑事にしかできない表情だった。
 自分では気づかないうちに、疲労感が食べたこともない南洋の果物の果汁を絞った滓のように溜まっていた。
 夕闇と街の明かりが競い合っているので、あるものが見えにくく、ないものが見えてしまうような時間だった。
(早川書房刊)