ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

映画『立ち去った女』

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(写真1 映画館で配布されていたチラシから引用)
秀逸な映画言語
 フィリピン映画。ラヴ・ディアス監督作品。映写時間3時間48分。大変長い映画で、途中休憩時間もなかったが、これが不思議におよそ飽きるということがなかった。つまり、そういう映画だということ。
 殺人の罪で30年間も獄中にある女ホラシア。無実だったのだが、ある日唐突に釈放になる。友人の女が告解によって真実を話したのだ。黒幕はかつての恋人だったロドリゴ。友人の女は告解したあと自殺してしまった。釈放されたホラシアは復讐の旅にでる。
 映画は、徹底して固定カメラの長回しである。フェードインもフェードアウトも、カットバックもなくてまるで三脚の上にカメラを載せたままのようだ。これが見るものに微妙な緊張感を強いている。
 それがモノクロ画面の細かな光と影でつないでいるからなおさら謎めいた印象を見るものに与えている。
 なかなか秀逸な映画言語であって、これは映画だけが作り出せる世界ではないか。映画独特の表現手段ではないか。
 淡々とゆったりと時間は流れている。しかし、スクリーンから目を離せない濃密さがある。
 ついにホラシアはロドリゴを探し出す。暴力によってその地位を築いたような男だった。
 ホラシアは闇社会から拳銃を購入し、狙撃の機会を窺う。そうすると、ロドリゴの二重の顔を見ることになる。
 復讐の引き金に躊躇するホラシア。ここまでの長い長い時間は、復讐への決断をためらう長さだったのだ。
 突然、場面が手持ちカメラの激しい映像に切り替わる。何が起こったのか。すべての材料を観客にさらけ出さない、映画だけが表現できるある種のモンタージュによって我々は結末を知ることができる。
 もちろん、重要なエピソードはあちこちにはめ込んである。また、鹿爪らしく言えば、罪と罰があり、善と悪があり、暴力があり、貧しいフィリピンの現実があり、ミステリアスでさえある。
 ロドリゴが神父に対し「神はいるか」と問う場面があったが、これを噴飯物と片付けられるものかどうか。
 そのすべてが映像で語られている。それがこの映画だということ。極めて深遠で骨太の映画だった。観客に妥協することなしに。
 昨年の10月に初めて東京で上映されたのだが、その折には見る機会がなくて、前評判はよかったのにその後もこの映画を掛ける映画館は少なくて、やっとこのたび阿佐ヶ谷のミニシアターユジク阿佐ヶ谷で見ることが出来たのだった。
 なお、本作は第73回ベネチア国際映画祭で最高賞である金獅子賞を受賞している。