(写真1 映画館に掲示してあった看板から引用)
エミリ・ディキンスンの生涯
アメリカの詩人エミリ・ディキンスンの生涯が描かれている。
マサチューセッツ州のアマストが舞台。南北戦争のころだから19世紀なかば。ラヴィニアが膨大な詩篇を発見する。姉のエミリが生前書き綴っていたもので、きれいに清書はされていたものの発表されることはなかった。
ディキンスンの家族は、父親、兄、エミリそれに妹のラヴィニア(エミリはヴィニーと呼んでいた)。一家は上流階級で伝統的なピューリタンである。
快活な少女だったが、成長とともに自我が強くなり、特に厳格なピューリタニズムへの反発があって学校を退学し、教会にすら行かないようになっていく。
大事なエピソードが一つ挿入されていた。牧師の説教の間起立したままだったから、父親からひざまずきなさいと注意されるのだが反発して従わなかった。父親のことは尊敬していたのだったが。
その父親が亡くなって、エミリは白い服装で通すようになる。ヴィニーが喪に服するなら黒い服でしょうというが耳をかさなかった。次第に外出することがなくなり、終いには一歩も外に出ず家の中で過ごすようになっていった。
楽しみは詩作である。初めのころは発表することもあったが、それも数編だけで、その後はただただ書き綴るだけである。エミリは「ただ、死ぬ前に評価して欲しい」とは言っていたが。
映画はとても美しい。特に後半は家の中ばかりの場面が多いのだがそれでも美しさは損なわれない。
それはなぜなのだろうかと不思議に思うと、ふとそれは劇中で朗じられる詩のせいだと気づく。エミリ自身が自作の詩を吟じているのだが、これがとても映画を豊かにしている。およそ20編ほども朗じられたのだろうか。詩は詩集で読んでもいいが、朗読されてもいいものだった。また、字幕もあったし。
私には英語の詩をすらすらと理解する能力はないが、どうやら自然や愛、死といったモチーフが多いようだった。
一つ、耳にというか目にというか残ったのは、私は誰でもない あなたは誰?というフレーズだった。
何しろ、私には日本語字幕が、あたかも役者が話したように聞き取ることが出来る。つまり、目で読んでいるのではなく、耳で聞いているのである。これはたくさんの外国映画を観てきたせいかもしれない。
出演者がよかった。特にエミリを演じたシンシア・ニクソンが素晴らしかった。あんなにも詩を美しく朗読できるということを初めて知った。感動だった。また、妹のヴィニーがエミリにとって最大の理解者なのだが、そのヴィニーを演じたジェニファー・イーリーなくしてこの映画は盛り上がらなかったのではないかとさえ思われた。監督はテレンス・デイヴィス。
ところで、これより先、詩作好きの消防士を描いた『パターソン』という最近観た映画で、やはり詩作好きの少女がディキンスンを尊敬していると語る場面があって、そうか、ディキンスンというのはアメリカでは少女の尊敬すら集める存在なのだと気がつかされていたのだった。
実は、私はかつてディキンスンの詩集をパラパラとめくったことがあって、『パターソン』を観て改めて書棚から岩波文庫の『ディキンソン詩集』を引っ張り出してきていた。奥付を見ると、1998年11月15日第1刷発行とあり、挟まれていたレシートによると、刊行されて間もなく12月14日に書泉ブックタワーで購入したもののようだ。わたしにはこういうふうにレシートを本に挟んでおく習慣がある。
亀井俊介編訳で、50編が収録されている。英和対訳になっているから読みやすい。これで思い出したが、ディキンスンの詩は大半が短篇で、やたらダッシュというか音引きというかが多い。
映画にも登場した詩を断片になるが幾つか引いてみよう。字幕の訳ではなく亀井訳で。なお、字幕の訳にはダッシュがなかったのではなかったかな。
わたしは誰でもない人! あなたは誰?
あなたもーまたー誰でもない人?
それならわたし達お似合いね?
だまってて! ばれちゃうわーいいこと?(以下略)
これは世界にあてたわたしの手紙です
わたしに一度も手紙をくれたことのない世界へのー
やさしい威厳をもって
自然が語った簡素な便りですー(以下略)
(<参考>岩波文庫『ディキンソン詩集』)