ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

佐藤正午『月の満ち欠け』

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「ちょっと死んでみる」
 直木賞受賞作である。
 面白い。先へ先へと進みたくなりページをめくる手がもどかしくなるほどだ。ただ、文章は練達の小説家を思わせる滑らかさなのだが、物語がややこしくてしばし手が停まる。
 単行本300ページを超す長編だが書き下ろしだという。してみると、作者は綿密に設計図を描いて書き進んだのではないか。大きな構想があって成り行きだけで書いたようには思えなかった。
 そうならば、読み手としても、設計図はものをつくる側の図面だろうから、こちらとしては読解図をつくりながら読み進んだ。読解図などという言葉があるかどうかわからないが、とにかくメモを取り相関図をつくりながら読んだ。本を読んで傍線を引くことはいつものことだし、メモをつくることも珍しいことではないが、本作を読むにあっては詳細な展開図が欲しかった。
 八戸から小山内堅が上京した。東京ステーションホテルで緑川ゆい・るり母娘と面談するためで、三角哲彦も同席するはずだったが遅れているという。るりは七歳の小学生にしてはませた口を利く女の子で、六十を超えた小山内に対し旧知の間柄、まるで同年配の話し方だ。
 小山内は一枚の絵を持参してきた。風呂敷包みをほどくと、ゆりが「あたしのだよ」と「これっぽっちも悪びれたところのない声で、見知らぬ少女が平然と所有権を主張する」が、小山内は「違うよ、お嬢ちゃん」「きみものものじゃない。これは、僕の娘のものだ」と反発すると、るりは「だから、はじめっからそう言っているじゃん。ぜんぶ聞いたでしょう、ママから?」と言い、「それが誰のものなのか、そんなことは知っているし、昔あったことも、たいてい知っているの。小山内さんよりもよっぽどあたしのほうが知ってる」と主張する。
 ちょっと長いがここまでがプロローグ。小山内とるりとの不自然な会話はどういうことなのだろう。この謎を秘めて物語は進む。
 主な登場人物をあげてみよう。小山内の妻梢と娘瑠璃。二人は瑠璃が高校を卒業したところで自動車事故死する。梢が運転していた。
 それに、小山内が東京で面談している相手緑川ゆいとるり。
 三角哲彦。学生時代人妻正木瑠璃と交際していた。
 正木(旧姓奈良岡)瑠璃は地下鉄電車に轢かれて死んだ。夫正木竜之介は、勤め先小沼工務店で、社長の娘の小沼希美が実は瑠璃と名付けられるはずだったことを知る。希美は女児誘拐した正木の車で名古屋へ向かう途中事故死する。
 ここまでの登場人物はほぼ物語の登場順である。ただ、時系列になっていないところが物語をややこしくさせている。
 それでも、ここまで読み進むとさすがに展開図はもう必要なくなる。つまり、瑠璃の輪廻転生だったのである。小山内、三角、正木の男三人が瑠璃に串刺しにされた物語だったのである。
 この間の、三角と正木瑠理との会話が面白い。
 瑠璃が、夫の職場で自殺した先輩が「ちょっと死んでみる」という遺書を残していたというエピソードを紹介する。これに対し瑠璃は、「たぶん、試しに、ってことだよね」と感想を述べ、もしかしたら、別の人間に生まれ変わること、それが死、なのかもしれない」と続ける。
 つまり、月が満ち欠けるようにということだが、三角は瑠璃から書かれなかった遺書として「あたしは、月のように死んで、生まれ変わる」というメッセージを受け取った。
 ところで、四人の瑠璃のうちの誰が初代だったかがわかれば、ラストシーンでは涙ぐむことになる。
(岩波書店刊)