ABABA’s ノート

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映画『残像』

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(写真1 映画館で配布されていたパンフレットから引用)
アンジェイ・ワイダ監督遺作
 1948年12月のワルシャワとおぼしきポーランドの都市。スターリンの巨大な赤い肖像幕がビルを覆い、「インターナショナル」の歌が街に大音響をまき散らしている。やっとナチスドイツの侵略から解放されたのに、ソ連の影響下にある統一労働者党の圧政が始まっていた。
 主人公は、ストゥシェミンスキ。著名な画家であり、大学で教鞭をとる人気の教授でもある。芸術に自由は生命だとして情熱的に創作に取り組んでいる。
 しかし、次第に社会主義による全体主義の圧政は厳しくなってきており、芸術家に対しても政治に協力するよう社会主義リアリズムが強要されてきていた。
 これに真っ向から反発したストゥシェミンスキは反体制の烙印を押され迫害されていく。作品は破壊され、教職は剥奪され、芸術家連盟から追放され、絵の具を買うこともできなくなり、終いにはパンの一切れすら口にできなくなるまで追い詰められていく。
 ストゥシェミンスキは、たびたび問われる。今が岐路だ、体制につくのか、反体制を貫くのかと。選択肢は一つしかないが、どっちの側か?と問われ、「自分の側だ」と答える。この言葉がこの映画を象徴する最大のメッセージであろう。
 アンジェイ・ワイダは昨年10月に亡くなっており、本作は遺作となった。出世作となった『灰とダイヤモンド』をはじめ全体主義を嫌い自由を追求する作品を世界に問うてきた。
 ストゥシェミンスキは実在の人物らしいが、明らかにワイダ自身が投影されており、自らの信念を貫き不屈の精神で闘った姿は、ワイダの強烈なメッセージとなっていた。
 それにしてもワイダが死の直前まで映画を撮っていたということに驚いた。90歳だったらしい。映画を撮りながら自らの半生を重ね合わせていたのであろう。

 ワイダが映画に込めた狙いは、現代にも通ずるのではないか。特に言論を縛り、忖度などと、訳のわからない言葉で納得している日本人にとっては痛切である。
 ただ、映画はやや平板だった。『灰とダイヤモンド』のような難解さも、『カティンの森』のような衝撃ぶりも影を薄めていた。
 ワイダは明らかに年老いていた。一つ、全般に乏しい映像美の中で感心したのは、冒頭の草むらのシーンで、右足のない主人公が坂を転げて遊んでいることは、その後の場面が終始暗かっただけにとても印象的だった。
 結局、テーマはわかりやすいが、それが逆に、ワイダがあれほど忌み嫌っていた社会主義リアリズムを裏返したようなものとなっていたことは皮肉だった。
 私はこの映画を神保町の岩波ホールで見たが、ワイダ作品を一貫して取り上げてきたこのホールでワイダの遺作が見られたことは、ワイダへの挽歌としてせめてものことだった。