ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

マイ・シューヴァル+ペール・ヴァールー『煙に消えた男』

f:id:shashosha70:20170510110823j:plain

マルティン・ベックシリーズの新訳
 スウェーデンのおしどり作家が1年に1作ずつ10年にわたって書き連ねて、今や警察小説の古典と言われるマルティン・ベックシリーズ。本作は原作2作目で1966年の刊行。日本では高見浩訳で1977年に『沈黙する男』と題して発行されていた。
 ただ、高見訳が英語版からの重訳だったのに対し、今回の新訳は柳沢由実子によるスウェーデン語版からの直接の訳出。
 何でも、スウェーデンでマルティン・ベックシリーズの新装版が10冊一気に2012年に出版されていて、柳沢訳はこれに対応したもののようだ。なお、日本語版の発行は原作とは刊行順序が違っていて、本作は3作目である。
 ハンガリーに行ったまま行方不明になっているジャーナリストを捜索するよう外務省から警察に依頼があり、ベックが担当を命じられた。
 ジャーナリストはアルフ・マッツソン。週刊誌の記者で、取材目的でブダペストに行ったまま編集部では連絡が取れないままでいた。
 この当時、ハンガリーは鉄のカーテンの向こう側の国、ジャーナリストの行方不明事件が一般に報道されれば重大な国際問題に発展しかねない。そこで、外務省では内密裡の捜査を依頼してきたのだった。
 ベックはまずストックホルム市内でマッツソンの周辺など下調べを行った。マッツソンは大酒飲みではあるが仕事に穴を開けるようなことはなかったらしい。東欧諸国の記事が得意で、ワルシャワ、ソフィア、ブカレスト、ベオグラードなどへ頻繁に出かけていたという。
 ブダペストへ飛んだベックは、マッツソンの足跡を追う。しかし、市街中心のホテルにチェックインしてすぐに出かけたまま、その後の足取りはまったくつかめなかった。マッツソンは急いでいたのか荷物は荷ほどきもされないままの状態だった。しかも、パスポートはフロントに預けたままだった。
 ベックは、マッツソンが泊まった同じホテルに部屋を取ってブダペスト市内を歩きまわる。
 まるで雲をつかむような手がかりのない状態の中で、十分に経験を積んだ捜査官であるベックの捜査の網は細く絞られていく。
 大きなクライマックスがあるわけでもなく、淡々としたベックの捜査ぶりが本書の醍醐味である。ベックは何事もないがしろにせず、小さな事象を積み上げていく。読者は、与えられた捜査情報を丹念に追っていかないと、上っ面だけを読んでいくことになりかねない。
 もちろん、それはそれで楽しいのだが、この過程で、鉄のカーテンの向こう側が描かれ、スウェーデン社会があぶり出される。鋭い観察がベックの持ち味で、しばしばその指摘に驚かされる。また、ブダペストの美しい街が描かれていて、物語は印象深いものとなる。マルティン・ベックシリーズの人気の所以である。
 ベックがブダペストを訪れたのはこれが初めてとのこと。私も随分と前のことだがブダペストには行ったことがあって、ベックが訪れてから数十年の開きがあったはずだが、印象はほとんど変わっていなくて、ヨーロッパの都市の魅力が思い起こされたのだった。
 なお、ベックの人間観察は緻密で、人物描写も微細なのだが、面白いのは家族の描写は淡々としていること。
 このたびの事件では、遅い夏休みを家族と群島で過ごすこととしたベックだったが、島に到着した翌日に警察から呼び出され、捜査に駆り出されたのだった。
 妻に、断ることのできない任務が発生したと電話で説明すると、次のような返答が帰ってきた。
 「あなたは私と子どもたちのことはぜんぜんかまわないわけよね」と言い、その後、こう付け加えた。「あなた以外に警察官がいないわけじゃあるまいし、なんであなただけがすべての事件を引き受けなければならないの?」
 どこの国でも刑事の妻というのは同じようなことを言うのだなと苦笑いした。
(角川文庫)