ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

前橋と前橋城

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(写真1 前橋駅前から伸びるけやき並木通り)
城下町の面影薄く
 上州の旅。1日目5月8日は、上信電鉄、信越本線と乗り、世界遺産富岡製糸場と碓氷峠鉄道文化むらを訪ねた後は前橋に泊まった。
 前橋市は群馬県の県庁所在地だが、何かと比べられる交通の要衝で商業都市である高崎市に対し行政の中心でやや地味な印象は否めない。玄関口前橋駅ですら、新幹線や高崎線、信越線からはずれて両毛線上にある。
 前橋はほんとうに訪れることは少なくて、泊まったことも随分と久しぶり。これまでは町を見物したこともなかったからこれを機会にぶらぶらと歩きまわった。
 前橋駅の駅頭に立つと、幅の広い立派なケヤキの並木道が北に向かって真っ直ぐ伸びている。その名もけやき並木通りというらしい。ただ、駅周辺は繁華街ではないようだ。
 5分ほどして五叉路に出た。ケヤキの並木は斜め左に進んでいる。県庁通りと名前を変えたらしく5分ほどして県庁に出た。その手前、通りの左には市役所があった。なお、五叉路を直進すると上毛電鉄の中央前橋駅である。
 県庁周辺は官庁街といった様子で、一帯は前橋城跡にあたるらしい。町名も大手町とあり、本丸跡地に県庁、二の丸跡地に市役所、三の丸跡地には前橋地方裁判所があった。特に県庁は33階建ての超高層ビルで、威風堂々としている。
  まるで行政機関が城跡を占領したという様相。県庁や市役所が城跡にでんと構える構図は全国の諸都市に珍しくないが、新しい領主風を吹かしているようで実は私は好きではない。
 前橋城は、かつては厩橋城と呼ばれ、江戸時代に入って徳川の重臣酒井重忠が3万3千石で入っている。重忠は城郭を改修し城下を整備したという。また、厩橋を前橋と改めた。続いて酒井家と入れ替わりに松平朝矩が15万石で入り松平家が維新まで治めた。ただ、歴代の城主は、暴れ川と呼ばれた利根川の浸食に悩まされたらしい。
 前橋城は関東七名城の一つに数えられ、しかも、再興前橋城は慶応3年(1867年)3月に完成したもので、このため日本で最も新しいお城と呼ばれるほどで、ところがわずか半年で維新を迎えている。これを維新からわずか4年を経ずして取り壊してしまったらしい。実にもったいないことをしたものだ。

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(写真2 県警本部脇の通りにある前橋城跡土塁の遺構)
 このような前橋城だが、現在に伝わる遺構は極めて少ない。県庁のすぐ後ろを利根川が流れており、これが外堀の役目を担い、河岸段丘上に城郭が築かれたもののようだ。典型的な平城である。
 現在の大手町界隈をぶらぶらと歩いてみたが、県庁と県警本部の裏側にかつての土塁跡が見られた。ここには「前橋城跡」の標柱が立っていた。
 また、県庁通りを進んでくると、手前、日経新聞前橋支局の脇に車橋門の跡が残っている。外曲輪から城内に至る重要な門だったらしいが、石垣が残っていた。前橋城跡では全般に残っている石垣は少ないから貴重なものだ。
 それにしても、市街中心をほんのわずか歩いただけだが、前橋には城下町の風情がほとんど感じられない。城下町特有の街路も少ないし、徹底して区画整理を行ったもののようだ。
 また、夕方、いっぱいやりに出かけてみたが、全般にネオンの明かりが少なかった。県庁通りの裏手にあたる馬場川の畔には風情ある店が数軒並んでいた程度だった。
 それで、通りで出会った若いサラリーマンのグループに飲食街の場所を訪ねてその方向を目指したのだが、想定したほどのものでもなかった。
 そもそも、ホテルのフロントで前橋名物にどんな食べ物があるか尋ねたのだが、明確な答えはなくて、せいぜい鶏くらいなものということ。
 しかし、それらしい店は見つからないし、結局、内陸で海のない県だから敬遠しようと当初は考えていた寿司屋に入ってしまったが、これが大正解。ネタもいいし、親父もいいし、隣り合った客もいいという三拍子が揃ったような店で満足した。

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(写真3 前橋城遺構の一つ車橋門跡)