ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

映画『家族の肖像』

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(写真1 映画館で配布されていたパンフレットから引用)
ルキーノ・ヴィスコンティ監督作品
 1974年に公開されたイタリア映画のデジタルリメーク版である。
 1950年代とおぼしきローマ。高級なアパルトマンに一人暮らす老教授。壁一面に飾られている絵画に取り囲まれている。その絵画には家族を描いたものが多いようだ。西洋絵画で集団肖像画、この場合は家族肖像画のカテゴリーに分類されるものであろう。
 没世間の生活に馴染み、喧噪を何よりも嫌う。絵画を研究し、読書三昧の日々。バックグラウンドにはクラシック音楽。雇って25年になる料理人兼任の家政婦。ほかに執事らしき男と若いメイド。
 この隠遁生活に美貌の侯爵夫人が闖入してくる。2階を貸してくれというのだ。即座に断るのだが、この夫人は傍若無人で押しが強い。根負けして1年限りということで貸すことにしたのだが、住まわせるのは若い愛人。ほかに奔放な娘とその恋人が登場する。
 何とも厚かましい連中で、契約も済まないうちから室内の改造に取り組むという始末。その騒々しさに唖然とする教授。
 トラブル続きだが、若い男とやりとりするうちに、この男が意外にも絵画や音楽に通じていることに好感を持ち始め、娘やその恋人らを招きディナーを一緒するようになる。意に染まないようなところもあるがこれが家族というものだと思うようにすらなる。
 教授は、「連合軍と一緒にアメリから帰ってきた」と語っていたのでかろうじて時代背景がわかった。大金持ちの侯爵夫人。これが貴族の生活かと思わせるわがままぶり。この頃はすでに貴族制度は廃止されていたはずだが、実社会ではでは習慣的に残っていたのであろう。夫の侯爵はファシストの化け物だと夫人は評していた。
 愛人は実はマルキストで、このことが侯爵にばれ、夫人に別れるように通告する。さらに、ディナーの席上、愛人と恋人の若者同士が論争しついにはとっくみあいのけんかを始める。
 ただし、この映画を階級問題ととらえてしまうと面白さは半減する。ヴィスコンティ自身が貴族だったし、貴族を描いた秀作は多いが、ここではタイトルを額面通りに受け止めた方がいいだろう。
 で、「孤独はこわくない」と教授が言えば、侯爵夫人は「結婚すれば家族が得られ、離婚すれば自由が得られる」と語る。
 場面の途中、途中で回想シーンが挟まれる。別れた妻が登場するが、教授は「リア王の心境だ」と語っているところから、あるいは裏切られたのかも知れない。
 老教授を演じたのはバート・ランカスター。この配役なくしてこの映画は成り立たなかったというほどの存在感だった。ヴィスコンティが熱望したのであろう。そう言えば、没落貴族を描いた『山猫』でもヴィスコンティはバート・ランカスターを起用して映画を成功させていた。
 バート・ランカスターは、多彩な役を演じていて、『OK牧場の決闘』、『許されざる者』などとあってアクション映画俳優かと思われがちだが、私には物静かな受刑者を演じた『終身刑』が最も印象深い。
 私は30数年ほど前になるのか、この映画は日本での封切り時には見ていたはずだが、細部が曖昧だった。ヴィスコンティの映画は、『山猫』のほか、『夏の嵐』が印象的だったし、マルチェロ・マストロヤンニが主役を演じた『異邦人』は今でもいくつかのシーンを思い描くことができるほどで、好んでみてきた。
 神田神保町の岩波ホールで見たのだが、映写が始まってすぐにかつて見たことをはっきりと思い出した。何しろ舞台設定が独特だったのである。
 忘れようがないほどだが、それはともかく、映画の場面はアパルトマンの教授の部屋と2階の部屋だけなのである。ある種室内劇のような趣きだが、濃密な舞台となっていた。
 なお、このことは、今回知ったことだが、この頃、ヴィスコンティは体が不自由で、歩きまわることができずこのような設定にしたということだった。それでも傑作は生まれる。