ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

冬の高野山を逍遙

 

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(写真1 奥の院へと続く参道)

山上の宗教都市

 高野山を逍遙した。高野山は初めてではないが随分と久しぶり。暮れに髙村薫の『空海』を読んで刺激を受け再訪した。それに冬の高野山というものを体験してみたかった。
 高野山には南海電車で向かった。1月6日難波駅。大阪最大の盛り場ミナミの中心を成し、御堂筋の突き当たり、高島屋を懐に抱え込んだ巨大なターミナルで、頭端式のホームがずらり8本も並んでいる。
 7時35分特急りんかん1号橋本行きに乗車。4番線からの発車。橋本8時19分着。すぐに高野線に乗り継ぎ。ホーム向かいに2両の赤い電車が待っていた。
 8時23分の発車で、橋本はJR和歌山線との接続駅だが、正月休みは終わったし、早朝だし、乗客はまばら。
 発車してすぐに紀ノ川を渡った。随分と上流だがすでに大河である。大きな盆地となっており、九度山を過ぎたあたりから山間へと分け入った。九度山は真田幸村が家康に飛ばされていた地で、大河ドラマにあやかったのか、ホームには真田の赤備えを模した赤い旗がはためいていた。
 急登攀が続き高度を上げていくと、右窓が深い谷になった。驚くことに、谷は奥へ奥へと深くなっていくのだが、どこまでも集落が点在している。
 そうこうして極楽橋9時01分着。電車はここまでですぐにケーブルカーへと乗り継ぐ。9時08分の発車で、5分で高野山に到着。標高は約900メートルということである。
 ただ、意外にさほど寒くはない。雪でも舞っているかと思っていたが、張り合いがないほどである。まあ、防寒対策をしてきちんと着込んできたせいでもあるだろうが。
 高野山は、八つの嶺々に囲まれた盆地で、東西6キロ、南北3キロ、周囲15キロに及ぶという。もとより空海が開いた真言密教の一大道場で、816年の開創から1200年を迎えている。山内には金剛峯寺のほか子院などが117ヵ寺にも達するらしい。何でも、お坊さんだけでも千人もいるというから、山上の宗教都市である。ちなみに、高野山という山はない。
 この山内をバスが巡っている。ケーブルを降りてまず初めに奥の院に向かった。一の橋まで約10数分。ここから参道が始まっている。御廟まで2キロとある。
 両側に樹齢数百年、あるいは千年にもなるか、杉の大木が並んでいる。それ以上に驚くのは、びっしり並んだ墓碑である。その数20万基ともいわれるが、確かな数はわからないらしい。鬱蒼としている。冬だからあたりまえのようだが、夏でも冷気を感じるのではないか。
  名だたる武将や大名の名が次々と現れる。切りがないからいちいち記さない。まるで高野山に埋葬されないと成仏できないと思われたかのようだ。埋葬された者たちには、それぞれに宗派があったのだろうが、すべての宗派を越えて受け入れてくれる、あるいは宗派に関係なく高野山で異界に住みたいとでも思ったのであろうか。これは他の宗派の大本山にはない事象ではないか。これが高野山のありがたさなのであろう。

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(写真2 御廟橋から望む奥の院。ここで脱帽しなければならない)
 ゆっくり歩いたが30分もかからずに御廟橋に着いた。ここからはいよいよ奥の院へと入っていく。立て札が建っていて、脱帽、写真撮影禁止などとある。
 橋を渡ったら、心なしか余計にひんやりと感じた。厳粛だし、神秘的。独特の宗教的空間である。ここから先は聖域である。そう感じさせる強い空気が漂っているようだ。
  少しして石段を登ると大きなお堂があった。これが御廟かと早とちりしたくなるが、これは燈籠堂。たくさんの燈籠がぶら下がっているが、その数2万とか。現在も受け付けているようで、大きさにもよるが、1基数万円程度からあるようだ。
 この燈籠堂の裏手にあるのが御廟である。御廟とは、入定(入滅のこと)した空海が眠る場所とでも言えるであろうか。もっとも空海は今でも生きて瞑想していることになっているが。
 御廟の中に入ることはできず、その門前で祈ることになるが、自然に頭を深く長く垂れたように感じられた。とにかく清浄で静謐である。
  この奥の院が高野山詣のハイライトであろうか。帰途も同じ参道を戻ったが、なぜか来たときよりもゆっくり歩いたようだった。余韻を大事にしたいようだった。
 奥の院からはバスで金剛峯寺に寄った。真言宗の総本山である。同時に、高野山全体が金剛峯寺の境内なそうである。
 金剛峯寺からは蛇腹路というきれいな道を抜けて壇上伽藍へと移動した。壇上伽藍とは開創した空海が根本道場としたところで、金堂(講堂)など数多くの伽藍が隣り合わせに建ち並んでいる。その中心は根本大塔であろうが、朱塗りも鮮やかで巨大なお堂だった。真言密教にとっては重要な施設群ということになる。しかし、根本大塔は少々立派すぎて、密教のイメージにそぐわないように感じられた。
 金剛峯寺や壇上伽藍は街の中にあり、もはや厳粛さも弱く神秘性は感じられなかった。明るく規模の大きな寺町という風情である。
 空海は弘法大師と諡号されたが、お大師様は、はたして奥の院と壇上伽藍とどちらをお好みであろうかとつまらぬことを考えていた。

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(写真3 壇上伽藍。手前から東塔などと堂塔が建ち並んでいる。奥が根本大塔)