ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

北原亞以子『初しぐれ』

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人情を細やかに描く
 時代物の短編5編と単行本未収録の直木賞受賞第1作が収められている。
 3年前に逝去した北原亞以子といえば『慶次郎縁側日記』シリーズなど時代小説の人気作家として知られるが、私にとって最も印象深いのは『東京駅物語』。明治末に工事が始まった東京駅を舞台に交錯する人々を描いていた。
  その本そのものは20年前の作品だが、このたび本書を手にとって、舞台となる時代は違えどいかにも北原らしく市井の人々の人情を細やかに描いていて共通しているなと改めて感じたのだった。
 表題作にもなっている「初しぐれ」がいい。亭主の楠太郎に先立たれたおこう。楠太郎四十五歳、おこう三十七歳である。おこう自身は姉のおしずが亡くなって後添えとなっていたのだった。おこうには結婚を許してもらった市之助がいたのだったが、これも三枡屋の暖簾を守るためだった。また、おしずには三歳になる長男清太郎がいたが、すぐにおこうになついた。それも今や嫁ももらい、立派な跡取りとなっていた。
 四十九日も明けて、おこうは「終わった。肩の荷はおりた。これからはよい女房や母親の面をつけていずにすむ」と思ったが、やりたいと思っていたことがちっともその気にならない。
 腑抜け、抜け殻、そんな言葉が浮かんでは消えるその間から「これまでに自分の意思できめたことがあっただろうかという疑問が湧いてきた」し、「わたしがきめたことは、市之助さんと夫婦になることだけだ」と。そう思うとおこうは行動を起こしていた。行きたいところ、会いたい人がいたのだった。
  ここからのエンディングがいい。清太郎がおこうへの気遣いを見せるのだが、そのエピソードが秀逸で、短篇の情感が詰まっていて思わずほろっとするし、ここまで丁寧に描いてきた情緒があふれ出すようだ。
(文春文庫)