ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

映画『或る終焉』

f:id:shashosha70:20160803202336j:plain

(写真1=映画館で配布されていたパンフレットから引用)

死と向き合う秀逸な映画言語

 監督・脚本ミシェル・フランコ。主演ティム・ロス。
 主人公のデヴィッドは看護師。とくに終末期の患者のケアを専門に手がけている。
  初老の女性を最後まで看取り、葬儀にまで参列した。患者の娘からは最後の様子を聞かせてくれとせがまれるが、あまり話したがらない。
 次に受け持ったのは寝たきりの老人。ここでもデヴィッドのケアは徹底していて、どこまでも寄り添っていく。病状が悪化したときなどは、受け持ち範囲ではないのだが、徹夜で看護する。患者が心配でならないのだった。
 ところが、こうした看護が家族にとってはいらだちの元で、セクハラだといってデヴィッドを解雇してしまう。デヴィッドのやり方は度が過ぎるのだとも。
 確かに、デヴィッドの看護は気配りも素晴らしいし患者にとってはありがたい。患者を抱きかかえるために体力が必要だということで、ジムに通いジョギングを欠かさない。看護師としてプロ意識が強く、デヴィッドの生活自体が患者と24時間向き合うことで成り立っている。
 そこまで主人公を追い立てるものは何か。デヴィッドは妻と別れ、娘とも疎遠になっている。息子の死がきっかけだったらしい。その死はどういうものだったのか。難病だったところを安楽死させたようにも受け止められる。刑に服し2年前に出所してきたようだが果たしてどうか。とにかく言葉が少なくて劇中ではなかなかわかりにくい。少なくとも私にはそうだった。これは見当違いかもしれないが。
  デヴィッドの苦悩は休まるところがない。久しぶりに会った娘は「お父さんの責任ではない」と語るし、妻も「再婚はしなかったのか」と尋ねるが、妻も娘もデヴィッドを毛嫌いしているようでもないが、デヴィッドの悔恨は深まるばかりだ。
 カメラワークが独特だ。ほとんどの場面で固定され長回しされている。場面の中ではカットバックすらないのである。場面に余計な装飾を与えずに直視しているように受け止められる。秀逸である。観客が自らが揺れ動くように仕向けられているようでもある。
 セリフも少ない。つまり、固定画面に少ないセリフは、まるで観客は傍観者の立場に置かれているようにも思えるのだが、実はそうではなくて、これが不思議なのだが、かえって観客は自分で少ない材料から映画をつかみ取っていくようにいつしかなっている。これは独特な映画言語だ。
 寝たきり老人の介護から解雇されたデヴィッドが次に担当したのは終末期の女性。ガンのため尊厳すら失われていく様子が冷酷に直視する映像で綴られていく。女性はデヴィッドに安楽死を頼む「あなたならできるはずだ」と言って。
 デヴィッドを演じた主演のティム・ロスがいい。苦悩がひしひしと伝わってくるようだ。これほど言葉の少ない主人公も少ないのではないかと思わせる。主人公の内面までもが描かれているようだ。静謐な画面の中から焦燥が感じられる。何か先を急いでいるようにも思われる。
 何だろうかとも感じさせられるが、映画の原題はクロニクルとある。つまり、辞書的には終末期とか、長期のとかいう意味。終末期介護の様子が淡々と冷酷に綴られてきたのだが、果たして訴えたかったのはそれだけか。ここで「或る終焉」という日本語の題名が大きな意味を持ってくる。
 ラストシーンがすごい。こんなラストシーンをこれまで見たこともないし、想像すらできない。一瞬のことで我が目を疑うが、衝撃が走る。何ということか、どうしたのか、果たして何だったのか。様々に考えさせるし、様々に解釈させる。
 このラストシーンを見るだけでこの映画の価値があるのではないか。つまり、ここで我々は死と向き合うこととなったのだった。
 この映画は、初め渋谷のBUNKAMURAで上映されていたのだが、そこではなかなか見る機会がなくて、やっとこのたび横浜のジャック&ベティという映画館で見ることができた。小さな文芸ものを得意とするような映画館だったが、わざわざ追いかけていった価値があった。
 ドラマが終わって、画面ではいつものようにキャストとスタッフの名前が延々と続くのだが、明るくなるまで誰も席を立つ者がいなかった。つまり、そういう映画だったということ。