ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

明知鉄道明知線と明智駅

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特集 私の好きな鉄道車窓風景10選

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(写真1 明知鉄道明智駅=2016年3月20日)

大正ロマン村へ

 明知線の旅は急いではいけない。全線わずか25.1キロ、駅数にして11だが、この間に魅力ある町が点在しており、日本一の急勾配に設けられた駅などというものもあって、鉄道ファンならずとも各駅で途中下車してみたくなる。しかしまずはいったん終着駅の明智をめざそう。

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(写真2 明知鉄道恵那駅)

 起点は恵那駅。ホームはJR中央線恵那駅の1番線を一部切り取ったような0番線。駅舎もJR駅に隣接し小さく設けられており、国鉄から分離独立した第三セクター鉄道の例に漏れずここでも継子扱いである。なお、駅からやや離れるがここには、中山道大井宿の宿場町が保存されている。
 そもそも明知鉄道は旧国鉄の明知線を転換した第三セクター鉄道で、岐阜県の南東部を愛知県境に向けて走っており、わずか25キロあまりの区間に二つの峠を越えるという急勾配と急曲線の連続する路線。
 普通列車の多くは平日なら1両のディーゼルワンマン運転。休日なら観光客の姿が目立ち、最大4両までも増結されることも。地味に見えるが人気の路線でもあるのだ。

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(写真3 登坂区間が続く明知線)

 急峻な山岳路線では決してないのだが、結構アップダウンの激しい路線である。まず、恵那を出て一つ目の東野からが約5キロにわたる登坂区間で、この間に標高差160メートルも登っていく。ディーゼルをめいっぱいにふかしながら延々と登っていく。

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(写真4 日本一の最大急勾配駅飯沼駅)

 次の飯沼駅はホームが33‰の途中にある。日本一の最大急勾配駅で、ホーム自体が勾配の途中にあるというのははなはだ珍しい。飯沼を過ぎると当然少しして下りに入るが、これも27‰もありどんどん下っていく。
 沿線には小さな盆地があり、眼下には小さな集落がある。深い谷があるわけでもないし、目立つような高い山はないのだが、重畳たる山並みである。
 途中、岩村で三分の一ほどが下車した。岩村城下は、伝統的建造物群に指定されており、人気の観光地である。
 終点の一つ手前の野志の前後がやはり急勾配区間で、ここも勾配の途中にホームが設けられている。ホームの勾配ということでは、飯沼駅が日本の第一位、野志駅が第二位だということである。特別の許可をもらって設定されたらしい。

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(写真5 賑やかな明智駅ホーム。左にはさまざまな企画列車のヘッドマークが展示されていた)

 そうこうして終点明智到着。恵那から約50分のところである。明知鉄道は営業熱心な鉄道で、数多くの企画列車が運行されており、実に10も越すであろうか、ヘッドマークが駅舎のホーム側に展示されていた。

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(写真6 懐かしい街並みが連なる大正ロマン村の様子)

 ここは街の一角を「日本大正村」として整備されており、古い街並みが残っていて風情のあるもの。村長として初代高峰三枝子、二代目司葉子と続き、現在は三代目の竹下景子。レトロテーマパークであり、大正ロマン館や大正時代の雰囲気を保存や再現した店などが軒を連ねている。往事の郵便局や銀行では実際の窓口業務も行っている。

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(写真7 構内走行するSLと車掌車=2016年3月20日撮影。この日がこのイベントの初日だった)

 明知鉄道はなかなか営業熱心な鉄道会社で、様々な工夫を凝らしている。その一つがSLの体験乗車。しかも、このSLには車掌車が連結されているという懲りよう。
  車掌車は、ヨ8000形で、明知鉄道では2015年に車掌車を導入しており、動態保存されている車掌車は全国に幾つかあるが、駅構内に限られるとはいえ、走行を体験乗車のできる車掌車は珍しいのではないか。

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(写真8 さまざまな企画列車が投入されている明知鉄道)
 なお、路線名の明知と終着駅明智との違いの明確な説明は見当たらなかった。駅名の明智もかつては明知だったが、旧国鉄から明知鉄道となった際に町名にあわせ明智となったものらしい。

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(写真9 かつての明智駅ホーム=1994年7月20日)

チキウ岬灯台

シリーズ 灯台慕情

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(写真1 チキウ岬灯台。断崖絶壁ぎりぎりに立っている=1988年9月30日)

地球が丸く見える断崖絶壁

 チキウとは、アイヌ語で断崖の意味があるという。なるほど、100メートルを超す断崖が絶壁となっており、ここに立つと地球が丸く見えるところから〝地球岬〟の愛称で呼ばれ人気の景勝地となっている。
 太平洋を北上してきた船舶は、尻屋埼灯台を過ぎると津軽海峡と太平洋の境目あたりを突っ切り恵山岬灯台で北海道に渡って初めての灯りを目にすることとなり、そのまま北上を続けると正面がチキウ岬灯台である。

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(写真2 麓の海岸から見たチキウ岬=2011年8月31日)

 鯨の尾びれのようにも見える渡島半島が大きく腰をひねって懐の深い内浦湾(通称噴火湾とも)を抱き込むと、チキウ岬はその東端に位置する。小さな半島だが絵鞆半島が室蘭港を天然の良港にしている。この半島は内浦湾に小さく左腕を突き出しており、ほぼ直角に曲げた肘のあたりがチキウ岬である。

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(写真3 JR室蘭支線母恋駅)

 チキウ岬へは、室蘭支線の母恋(ぼこい)が最寄り駅である。ぼこいとは旅を何とセンチメンタルにしてくれる名前か。ここはホッキ貝の駅弁が人気だったが、現在はどうか。
 母恋駅からバス便がある。道南バス地球岬団地行き。また、坂道にはなるが歩いても40分ほどである。斜面を切り拓いたような住宅地を登り詰めると、いきなり展望が開ける。太平洋である。

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(写真4 展望台にある電話ボックス)

 展望台になっていて、地球をデザインした電話ボックスがある。灯台は眼下にある。灯台は絶壁ギリギリに建てられてある。なぜに、どのようにしてこれほどまでにギリギリに建てたものかと驚く。当然、非常に見晴らしがいい。断崖は100メートル余りの高さとなっており、遮るものは何もない。思わず両手を羽のよう広げて飛び込みたくなる誘惑に駆られる。私は、断崖絶壁の岬に立つと飛び込みたくなるのだが、これほど誘惑を押さえ込むのに苦労する岬もない。晴れていれば遠く恵山岬が見える。また、内浦湾を挟んで対岸には小さい灯台だから見つけにくいであろうが砂原灯台も見えるはずだ。
 灯台は白堊の八角形である。灯台はさほど大型とは思われなかったが、調べてわかったことは、第三等のフレネル式レンズを持ち、実効光度59万カンデラ、光達距離は24海里(約44キロ)もある。海上の船舶からは大変頼もしく見えたのではないか。

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(写真5 チキウ岬周辺は奇岩巨岩が連なっている)

 また、海上の船舶からということでは、チキウ岬灯台周辺は奇岩巨岩が立ちはだかるように見えるのではないか。トッカリショ、イタンキなどと実に魅力的な海岸線となっている。海食崖によるものと思われ、海抜が100メートルを超すような断崖絶壁が14キロも連なっている。

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(写真6 鉄の街室蘭)

 鉄の街室蘭。白鳥大橋が港を跨ぐ港側からいったん尾根を越せば荒々しい海岸線となってその変化が魅力のチキウ岬灯台である。

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(写真7 断崖ぎりぎりに建つチキウ岬灯台=2011年8月30日

 

<チキウ岬灯台メモ>(灯台表、現地の看板、ウィキペディア等から引用)
航路標識番号[国際標識番号]/0088[M6745]
位置/北緯42度18分08秒 東経141度00分04秒
名称/チキウ岬灯台
所在地/
塗色・構造/白色 八角形 無筋コンクリート造
レンズ/第3等大型
灯質/群閃白光 毎22秒を隔て8秒間に2閃光
実効光度/59万カンデラ
光達距離/24海里(約44キロ)
塔高/15メートル(地上 - 塔頂)
灯火標高/131メートル (平均海面 - 灯火)
初点灯/1920年(大正9年)4月1日(当時のまま現存)
管轄/海上保安庁第一管区海上保安本部室蘭海上保安部
備考/日本の灯台50選

遅い梅雨入り

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(写真1 我が家の庭に咲いているアジサイの花)

季節の花そのままに

 梅雨入りした。例年より3、4日遅いそうである。
 少しずつ生活が平常に戻りつつある。とはいっても、まだ旅行はしていないし、電車に乗ること自体も、4月以降では先日が初めてだったし、外食もしていない。ゴルフだけはつい先日やった。平均年齢が70歳を超すような、それこそOBばかり。何も無理してやるようなことでもなかったのだが、半年前に決めていたスケジュール。幹事役が再調整が面倒になったからかもしれないが、欠席者はいなくて全員参加したから、みんな飽き飽きしていたのだろう。思いのほか元気な顔がそろった。不思議にスコアも悪くなかった。
 季節の花がそのままに咲いている。梅雨入りを感じさせてくれる花ばかり。
 我が家の庭では、アジサイの花が今年も咲いた。昨年枝をバッサリ刈り込んでいたから今年はどうかと思っていたが、アジサイは強いのだろう、しぶとく咲いてくれた。

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(写真2 ハナミズキに似ているがこれはヤマボウシの花)

 いつも散歩で訪れる近所の公園では、ヤマボウシが白い花をいっぱいに咲かせていた。季節こそ違え、ハナミズキに似ていると思って調べてみたら、同じミズキ科の樹木らしい。
 クチナシもこの季節の花。甘ったるい香りが独特で好きだが、いたみやすくて、白い花がすぐに黄ばむ。
 高木だから見つけにくいがタイサンボクも、お椀のような肉厚の白い花を咲かせていた。キョウチクトウも咲いていた。
 私はかつてこの時期毎年中国に出かけていたのだが、北京や上海でこの二つの花の咲き誇っているのを見て、いつも目を楽しませてもらっていたのだった。タイサンボクやキョウチクトウの名前を知ったのも中国だった。
 ちょっと変わったユリの花を見つけた。橙色をした派手な花で、スカシユリというらしい。調べてわかったが、万葉集にすでにあるらしい。もっとも、知らぬは自分ばかりなりということのようだ。

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(写真3 スカシユリの花)

札沼線新十津川駅

シリーズ 駅 情景

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(写真1 札沼線かつての終着駅新十津川駅=2013年7月19日)

廃駅となった行き止まりの終着駅

 札沼線は分断の歴史だった。そもそも、札沼線が桑園-石狩沼田間の全線で開業したのは1935年だが、その後、戦時下において不要不急の区間として石狩追分-石狩沼田間などが営業休止に追い込まれ、全線での営業を再開したのは1956年だった。
 しかし、1972年になると新十津川-石狩沼田間が営業廃止となり、ついに今年2020年5月7日をもって北海道医療大学-新十津川間が廃止となった。それも、新型コロナウイルス感染症拡大の影響を受けて、最終運行日は4月25日に前倒しとなり、さらに、緊急事態宣言の発出により最終運行日は4月17日に繰り上げとなり、ラストランも中止となるなど残酷な終末となってしまった。これは、いわば、鉄道ファンに限らず地元住民にとっても親の死に目にも間に合わないようなこととなってしまったのだった。もっとも、最終運行日が繰り上げとなったのは、連休が続く5月7日では鉄道ファンなどが押しかける事態を回避する狙いもあった。
 結局、札沼線は桑園(すべての列車は一つ隣の札幌発着)-北海道医療大学間30.5キロが残るばかりとなった。全通時桑園-石狩沼田間は111.4キロだったから27.4%にまで削られたこととなった。
 それにしても、札沼線は新十津川まで乗り通そうとするととても不便な路線だった。札幌に近い石狩当別あたりまでは列車本数も多いから問題ないのだが、廃止直前になると、新十津川まで到達できる列車は乗り継いでも何と日にわずか1本しかなかったのである。

 札沼線には何度か乗ったが、2013年7月19日のノートをひもといてみよう。次のような記述がある。
 札幌7時00分発札沼線石狩当別行き。札幌駅10番線からの発車で、ディーゼルカーの6両編成。なかなか大きな編成だが、これは近年札幌通勤圏として沿線の宅地化が進んでいるから。
 実際、乗っている下り列車は高校生がちらほらする程度でがらがらだが、すれ違う上り列車は満員の様子。
 札沼線は、桑園(列車はすべて札幌発着)から、石狩平野の北端にあたる新十津川を結ぶ路線で全線76.5キロ。沿線には複数の大学が設置されているらしく、学園都市線という愛称がつけられている。
 あいの里教育大などと進み石狩太美に至って広大な石狩平野の中央部となってきた。このあたりは田園地帯の様相で、稲作が目立って多い。これは畑作が多い十勝や富良野などとは決定的に違った風景である。酪農が中心の地域にはサイロが多いのでその違いがわかる。
 石狩当別7時38分着。この列車の終点で、新十津川行きに乗り継ぐ。次の北海道医療大学までが電化区間で、ここで運転系統が変わる。
 次は1両のディーゼルカーワンマン運転で、7時45分の発車。この先は札沼線も極端に列車本数が減少し、新十津川まで向かう列車は日にわずか3本しかない。

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(写真2 列車交換の行われた石狩月形)

 石狩月形8時19分着。途中から乗ってきた高校生たちはここで全員下車した。高校生が降りたら車内はがらんとした。残ったのはわずかに3人。そのうちの一人の人が言うにはいつもせいぜい一人か二人だと。また、駅員が言うにもゼロの時すらあると苦笑い。
 発車は8時40分で、随分と長い待ち合わせ時間だなと思って駅員に尋ねたら、列車交換のできる場所は新十津川までの間ここしかないのだという。
 月形を出てすぐ右に広大な敷地に多くの建物が見えたが、これが月形の刑務所であろう。ここは開拓時代月形監獄として知られたところ。
 途中、浦臼で二人が下車したら残ったのは結局私一人になってしまった。

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(写真3 見渡すかぎりの田んぼが広がる車窓。石狩平野である)

 新十津川が近づいたら沿線は見渡す限りの田んぼとなった。北海道の稲作の中心で、この頃は北海道産の米もうまいと評判がよく、大規模農業が発達しているようだ。

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(写真4 新十津川駅で出迎えてくれた可愛い子供たち)

 新十津川9時28分定刻到着。出迎えてくれたのは可愛い幼児たちで、いずれも2歳になるという男の子と女の子。近所にある保育園の保母さんがついていて皆さんそろいの黄色いティーシャツを着ている。歓迎の挨拶を書いた手製のはがきも手渡してくれた。
 列車が着くたびに(といっても日に3度だが)迎えに出ているようで、温かい歓迎ぶりに大感激だった。また、駅構内外は色とりどりの花がいっぱいでとても美しかった。

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(写真5 駅舎もホームも花いっぱいの新十津川駅)

 このようにとても印象深い終着駅で、いつまでも残しておいてほしいと願いたくなるようだった。
 この日は、この新十津川から函館本線の滝川まで足を伸ばした。両駅間は石狩川を挟んで最も接近しているところで、タクシーで10分ほどだった。

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(写真6 雪に埋もれそうな石狩当別駅。雪かきされた歩道は背の高さほどの雪=2012年2月10日)

 実は1年前の2012年2月10日にも全く同じルートをたどった。ただ、この時は、札沼線の列車は大雪のため途中の石狩当別で運転中止となってしまい、やむを得ずいったん札幌まで戻り、特急列車で滝川へ向かったのだった。そうしたところ、何のことはない滝川では当初予定していた列車を捕まえることができたのだった。無駄に大回りしたように思えて、実は函館本線の特急列車が速かったのだった。

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(写真7 雪に埋もれた新十津川駅=1994年2月14日)

 一方、函館本線の滝川と札沼線の新十津川を短絡するということでは、1994年2月14日に実行したことがあった。この日は、今は廃線になった深名線に乗った後、滝川から新十津川に渡り、札幌をめざしたのだった。この時のノートには「折り返しのディーゼル1両が定刻9時22分より少し遅れて到着した。乗客が一人いたのに驚いたくらいだ」とあった。9時41分の発車だが、「1日3往復。乗客は自分のほか一人。しかし、ホームの雪はきれいに除雪されていた」ある。
 新十津川は、奈良県の十津川から移住した人々が開拓したところなそうで、この名がついている。

虎ノ門ヒルズ駅開業

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(写真1 虎ノ門ヒルズ駅下り線1番線ホームの様子)

日比谷線に56年ぶりの新駅

 東京メトロ日比谷線に新駅虎ノ門ヒルズ駅が6日開業した。日比谷線に新駅が開業したのは56年ぶり22番目。
 虎ノ門ヒルズ駅は、霞ヶ関駅と神谷町駅の中間に設けられ、銀座線の虎ノ門駅とは地下通路で直接結ばれている。港区虎ノ門一丁目所在。道路上では桜田通りと環状二号の交差点付近に位置する。
 相対式2面2線のホームがあり、下り中目黒方面が1番線、上り北千住方面が2番線となっている。改札内に連絡通路はなく、反対側ホームに渡るにはいったん地上に出る必要がある。現在は暫定開業であり、2年後の最終開業では地下2階にコンコースが設けられ、連絡通路も整備される模様。

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(写真2 1番線にある虎ノ門ヒルズ森タワー方面改札口)

 1番線には、虎ノ門ヒルズ森タワー方面と桜田通り方面の二つの改札口があり、虎ノ門ヒルズ方面の改札を出ると、直接森タワーに連絡している。

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(写真3 新虎通りから見上げた虎ノ門ヒルズ森タワー)

 虎ノ門ヒルズは、森タワーを中核とする4棟の超高層ビルで構成されており、森タワーは、地上52階地下5階建て高さ347メートルの超高層ビルで、レストランやショップ街、オフィス、ホテル、住居で構成される複合ビル。
 このビルの1階を環状二号道路通称環二通りが貫いている。これほど巨大なビルを道路が貫いているというのもすごい。環二通りは外堀通りから繋がっている通りで、この虎ノ門ヒルズから新橋までの間は新虎通りとの愛称がついている。そもそもマッカーサー通りとして開通をめざしてたが、地権者との問題などがあって開業が遅れていた。
 ところで、そもそも日比谷線は、北千住駅を起点に中目黒駅を終点に結ぶ路線。全線20.3キロ。北東から西南に都心を貫き、上野、秋葉原、銀座、霞ヶ関、六本木などを経由している。
 旧営団地下鉄(現東京メトロ)としては、銀座線、丸ノ内線に次ぐ三番目の路線で、銀座線と丸ノ内線が標準軌であるのに対し、営団地下鉄としては初めて軌間が狭軌となっている。このため、標準軌では他社線とその相互乗り入れができなかったが、狭軌となって初めて日比谷線は北千住で東武伊勢崎線と相互直通運転を行っている。また、中目黒でも2年前まで東急東横線と直通運転を行っていた。
 虎ノ門ヒルズ駅周辺を歩いてみたが、思いもかけぬところに新駅ができているし、新しいビルが林立し、新しい通りができていて、久しぶりに出かけると戸惑うようだった。

 都心では、今年に入ってからだけでも、1月3日に地下鉄銀座線の渋谷駅が100メートル移動し新築移転したし、3月14日には山手線の30番目の新駅高輪ゲートウエイ駅が誕生するなど、新駅の開業が魅力ある新しい街づくりを促している。

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(写真4 森タワー付近から新橋方面を見た新虎通り)

いわきの塩屋埼灯台

シリーズ 灯台慕情

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(写真1 南側の豊間漁港から見た塩屋埼灯台=2017年3月9日)

演歌が流れる岬

 塩屋崎に半島はない。せいぜい、ちょっと出っ張った腹に出べそがちょこんと出ているという風である。しかし、この出べその格好が良くて、塩屋埼灯台は絶景となっている。大変人気のある灯台で、観光バスがひっきりなしに横付けされている。房総半島より北の太平洋岸なら犬吠埼灯台に次ぐのではないか、
 また、塩屋埼灯台の人気は、ここを舞台に歌われた美空ひばりの名曲『みだれ髪』が預かって大きいのではないか。岬の付け根にある土産物屋が大音量で曲を流している。いかがなものかと思わないでもないが、いつしか自分も口ずさんでいるからいい加減なものである。

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(写真2 路線バスの停留所。遠く灯台の上部が顔をのぞかせている=2018年6月14日)

 塩屋崎には、常磐線いわき駅から常磐交通の路線バスが出ている。小名浜漁港などを経て泉駅まで岬をぐるっと回る路線で、塩屋埼灯台はその中間あたり。いわきからなら約30分。灯台入口というバス停で降りると、遠く岬上に灯台が顔をのぞかせている。

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(写真3 灯台から見下ろしたかつての薄磯の集落が左に見えている=1989年12月16日)

 かつては薄磯(うすいそ)という集落が灯台との間にあって、バス停からは灯台は直接望めなかった。それが、東日本大震災の津波被害によって、集落がごっそり津波でさらわれてしまったため見晴らしが良くなってしまった。現在は、立派な防潮堤が築かれ、宅地整理も終わっているが住民は戻ってきていないようだ。通りで会ったご夫婦と話したら、自分たちも高台へ引っ越ししたし、平地は分譲しているが買い手がつかないということだった。もうあれから2年になるが、集落に住民は戻っていているものかどうか。

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(写真4 津波で壊滅した薄磯の集落。立派な岩壁が張り巡らされているが住民は戻るのだろうか=2018年6月14日)

 きつい階段を登ると塩屋埼灯台である。白堊の堂々たる灯台で、実に美しい塔形をしている。塔高が24メートル、灯火標高は73メートルとある。つまり、灯台は約50メートルの断崖の上にあるということ。常時一般公開されている参観灯台で、らせん階段を登ってデッキへ。階段は100段ほどもあるからなかなかきつい。しかし、デッキに出ると一気に眺望が広がる。

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(写真5 塩屋埼灯台。美しい姿をした灯台だ)

 この爽快感を味わいたくて灯台を訪ねるようなもの。眼前は大きく広がる太平洋である。両手を広げて余るほどだから 200度もの眺望。左手は薄磯の砂浜の海岸で、遠くに巨大な煙突が見えるが、広野火力発電所かもしれない。右手は豊間の漁港が見えている。眼下では岩礁を波が洗っており、船舶にとっては難所であろう。灯台の北が砂浜で、南は海岸段丘となっている。
 デッキに立つと、二つの海岸線の違いがくっきりとわかって面白い。地図を広げて指ではかると、犬吠埼灯台から金華山灯台の中間に位置するようだ。
 日本の灯台50選。

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(写真6 灯台資料室に展示されている四等閃光レンズ。陸奥湾の平舘灯台で使用されていたものだという)

 敷地内には灯台資料室があって、灯台の仕組みなどが説明されてあった。レンズも展示してあって、レンズが回転して光を放つ仕組みがわかるようになっていた。

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(写真7 映画「喜びも悲しみも幾年月」の記念碑)

 灯台の麓には二つの大きな記念碑がある。一つは、映画「喜びも悲しみも幾年月」(監督木下恵介)のもので、ここの灯台長夫人の手記が原案となったということだった。また、ロケも行われたとのこと。
 もう一つは、塩屋崎を歌った美空ひばりの「みだれ髪」の歌碑である。塩屋崎を有名にしたのはこの哀愁のこもった歌だったのかもしれない。実際、訪れている中高年の人たちは流れてくるひばりの歌を聴いて喜んでいた。
 なお、塩屋埼灯台は、東日本大震災で地震被害に遭った灯台で、9ヶ月間も消灯していて、再点灯したのは11月30日だった。

<塩屋埼灯台メモ>(灯台表、ウィキペディア等から引用)
航路標識番号[国際標識番号]/1801[M6512]
位置/北緯36度59分7秒 東経140度58分9秒
名称/塩屋埼灯台
所在地/福島県いわき市平薄磯字宿崎34
塗色・構造/白色 塔形 コンクリート造
レンズ/第3等大型
灯質/単閃白光 毎15秒に1閃光
実効光度/44万カンデラ
光達距離/22海里(約40キロ)
塔高/22メートル(地上 - 塔頂)
灯火標高/73メートル (平均海面 - 灯火)
初点灯/1899年(明治32年)12月15日
管轄/海上保安庁第二管区海上保安本部福島海上保安部
歴史/1899年(明治32年)12月15日煉瓦石造で建てられ初点灯した。
1940年(昭和15年)3月30日鉄筋コンクリート造に改築
2011年11月30日約9ヶ月ぶりに再点灯

沢木耕太郎『旅のつばくろ』

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心温まる旅のエッセイ

 JR東日本の車内誌「トランヴェール」に連載されているエッセイ41編が収録されている。
 新幹線に乗った折に手にすることが多く、巻頭エッセイだし、文章が平易で、分量も1編あたり5分程度で読めるようなところから座席に落ち着くと必ず初めに読み出してきた。フリーペーパーだから気に入ってそのまま持ち帰ることも少なくなかった。
 単行本になってその魅力に改めて気づかされた。著者とは同年代だし、『深夜特急』以来好んで読んできたが、沢木の人柄と体温がこれほど感じられたこともなかった。
 腑にストンと落ちる言葉も多かった。一つ二つそのまま拾ってみよう。
 本は、その舞台になった土地で読むと、不思議なほど理解が深くなるということがある。
 旅は家に帰ったところで終わる。
 なにより、飛行機だと東京と金沢との距離感が体の中にすっと収まってこない。
  旅人はいつでもこう思う。自分はこの地に来るのが遅すぎたのではないか。もう少し早く来ていれば、もっとすばらしい旅があったのではないだろうか、と。
 面白い着想がある。
 世田谷から奥多摩駅まで何度も通ったことから、片道三時間半往復七時間これはもうひとつの「旅」というくらいのものである、として
 しかし、この長い旅を、いつしか私は愛するようになっていた。とりわけ青梅から奥多摩までの、仮に私が「奥多摩線」と名づけた沿線の風景が、心に滲みるようになってきたのだ。
 青梅線を奥多摩線と言い換えるところは斬新な発想だし、しゃれている。
 また、「終着駅度」というのも面白い。
 津軽線は三厩で行き止まりになる。三厩は終着駅なのだ。私は日本でも外国でもさまざまな終着駅に降り立ったが、この三厩の「終着駅度」はなかなかなものだった。短い車両から降り立った客は私ひとりであり、線路はすぐ近くの倉庫に消えていってしまう……。
 確かに、日本の全鉄道のすべての終着駅に降り立ったことのある私でも、三厩駅の終着駅度は高いと思う。終着駅度とはいい言葉を教えて貰った。
 とにかく、このエッセイはオチがうまく、情感もたっぷりだし、「旅運」などという言葉も出てくるし、興味深くて読み出したら停まらないほどだった。
 一年後か、数年後になるか、また読んでみたいと思わせられるエッセイ集だった。
(新潮社刊)