ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

広野駅で線路は封鎖

特集 常磐線復旧への軌跡②

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(写真1 上下線をまたぐ仮設の足場によって線路が寸断された広野駅=2011年12月30日)

原発事故で寸断された常磐線

 常磐線は、線区上は日暮里駅(東京都荒川区)から岩沼駅(宮城県岩沼市)を結ぶ全長343.1キロの長い路線。ただし、列車運行上は、日暮里方の列車は上野あるいは品川から、岩沼方も仙台発着が大半。路線は東京、千葉、茨城、福島、宮城の5都県にまたがり、途中、茨城県に入って日立あたりから太平洋に面する。
 沿岸部に至って東日本大震災の被害を大きく受けたが、それも、津波によるものばかりではなく、原発事故が甚大な被害をもたらした。つまり、常磐線は放射能の被害を直接受けた日本で最初あるいは世界で唯一の鉄道となったのである。
 2011年3月11日の被災から9年目。被災から常磐線は少しずつ復旧を重ね、復旧のできないところは代行バスを運行してつないできた。結局、全線で運転を再開できるまでに9年を要したわけだが、東日本大震災で被災した鉄道では最後の復旧となった。
 この間、私は復旧がどのように進んでいるのか、運転再開の区間ができるとその都度常磐線に乗りに出かけていた。
 特に関心を持ったのは原発被災地の様子。三陸には被災直後から度々出かけていたが、原発被災地にはなかなか足が向かなかった。しかし、原発被害とはどういうものなのか、自分の目で確認したくて常磐線に乗りに出かけた。

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(写真2 当時の広野駅のたたずまい)

 2011年12月30日。上野発の特急列車を水戸で普通列車に乗り継ぎ、人身事故の影響などもあって広野到着が11時20分。この時点で、常磐線の運転はここまで。この先原ノ町までの区間は原発事故の影響で不通となっていた。線路はつながってはいるのだが、立ち入ることばかりか通過することもできない。広野から先の線路はさび付いていた。広野は上野から234.6キロ、水戸から117.1キロ、いわきからなら23.0キロの地点である。

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(写真3 広野から先は不通。線路はさび付いていた)

 広野では、タクシーで原発にできるだけ近づけるところまで行ってもらったのだが、ほんの10分ほど走ったところで行き止まりになった。

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(写真4 20キロ圏で封鎖されていた国道6号)

  広野駅は、第一原発から約24キロの距離に位置しており、20キロ圏で国道6号線は封鎖されていたのだ。この先は警戒区域となっており、封鎖地点には多数の警察車両が配置され、警察官が検問を行っていた。

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(写真5 警戒区域への中継基地となっていたJヴィレッジ)

  また、この封鎖地点のそばにはJヴィレッジという広大なスポーツ施設があって、このときには警戒区域に入る関係者の中継基地となっていた。ここで防護服に着替え、帰ってってきたらここで除染するということだった。
  タクシーに広野の町を一回りしてもらったが、走っていて気がついたこと。きれいな家が建ち並んでいるのだが、人っ子一人見かけないし、生活臭が感じられない。どうやらみんな空き家なのである。20キロ圏の外側は強制避難は解除されたが戻ってきた人は1割にも満たないのだという。
 大震災後、三陸には二度入ったが、どこも津波で壊滅して焦土と化し、呆然とする風景だった。
 しかし、ここの風景も恐ろしい。家は傾いているわけでもないし、カーテンも引かれている。それと気がつかなければ穏やかな風景だ。しかし、まるでゴーストタウンなのである。
 タクシーの運転手が言う。「津波の被災地は時間と金をかければ復旧するだろう。しかし、ここに元の生活が戻ることはないのではないか」と。運転手は穏やかな老人で、この運転手にはあれこれと尋ねたのだが、原発の話になると憤りが高まるようだったし、悔しさがにじみ出てくるようだった。

全線で運転再開の常磐線

特集 常磐線復旧への軌跡①

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(写真1 全線運転再開への期待をにじませる幕=双葉駅で)

帰還困難区域を鉄道が走る

 東日本大震災と福島第一原子力発電所事故の影響から最後まで不通となっていた富岡-浪江間が復旧、常磐線は3月14日全線で運転を再開した。
 復旧したのは、富岡と浪江の間20.8キロで、この間に夜ノ森、大野、双葉の3駅がある。福島第一原発に最も近いところにあたり、現在に至るも帰還困難区域となっており最後まで復旧が遅れた。
 被災から9年目にしてやっと常磐線がつながったわけで、これによって復興への大きな弾みとなることが期待されるが、早とちりしてはいけないことは、鉄道が復旧したからと言って帰還困難地域がすべて解除されたわけではないと言うこと。解除されたのはあくまでも鉄道線路とその両側だけで、本格的な復興にはまだまだ時間がかかる。
 復旧はどのように進んでいるのか、運転を再開したばかりの復旧区間に乗りに3月16日出かけた。
 上野8時00分発ひたち3号仙台行き。運転再開に伴って組まれた上野と仙台を1本で結ぶ特急列車で、日に3本が設定されている。10両編成。使用車両はE657系常磐線特急列車用電車。
 ところが、順調に走行していた列車が、あろうことか、水戸を過ぎ日立に至って運転を停止してしまった。いわきの先大津港駅で信号故障が発生したものらしい。システムの故障だったらしく、修理に手間取り、結局、50分遅れで運転を再開した。その後も、遅れを挽回するどころか、さらに遅れを増し富岡に着いたらすでに1時間の遅れとなっていた。

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(写真2 特急ひたち3号が到着した富岡駅ホーム)

 富岡からが運転再開区間。富岡駅ではホームに出てしきりに写真を撮っている姿が多く見られた。

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(写真3 夜ノ森駅の線路周辺では避難指示が解除され工事が始まったようだ。名物の桜はまだ咲いていなかった)

 次の夜ノ森(よのもり)駅では土木工事が行われていた。やっと着手できたというところであろうか。桜で知られるところだが、まだ咲いていなかった。

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(写真4 大野駅そばの住宅はうち捨てられたままの様子だった)

 続いて大野駅では線路のそばにある大熊町の町営住宅であろうか、うち捨てられた空き家の様子だった。

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(写真5 真新しい大野駅。駅前はがらんとしていた)

 大野駅のホームは真新しいのだが、駅前はがらんとしていた。

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(写真6 左窓に見えたアパート3棟。窓ガラスが割れまるで廃墟のよう)

 大野を出ると、左窓に公営のものであろうか2階建てのアパートが3棟見えた。離れてはいたが、注意してみると、窓ガラスが割れまるで廃墟のように思われた。

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(写真7 双葉駅の駅前は再開発の様子。看板には「町民一人一人の復興と街の復興をめざして」とあった)

 次が双葉駅。福島第一原発は大野駅と双葉駅の中間に位置する。双葉駅からは双葉町が建てた「町民一人一人の復興と街の復興をめざして」とする大きな看板が見られ、再開発に着手されている様子がうかがえた。

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(写真8 浪江駅前のアパートは無残な姿。9年の風化が激しい)

 浪江駅でも、アパートなど車窓から見える沿線の建物はことごとくうち捨てられているようだった。
 浪江を出ると一気に加速し原ノ町到着。ちょうど1時間遅れだった。このため、予定していた折り返し列車に間に合わず、2時間10分もの空白が出てしまい、帰途は復旧区間で途中下車し復興状況をつぶさに観察したいものだと計画していたが、急ぐ旅ではないものの、夕方になって急速に寒さが出てきていたし断念して普通列車で一駅ずつかみしめるように帰った。結局、この日は5本の列車を乗り継いだのだが、故障あり、事故あり、強風ありなどとすべての列車が遅延した。まあ、数多く汽車旅を行っていれば、こういう日もある。

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(写真9 常磐線特急用車両E657系)

時刻表完全復刻版

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(写真1 時刻表完全復刻版。左が1964年10月号で右が9月号=カバーは復刻版のためのもの)

1964年9月号/10月号

 東海道新幹線開業当時の時刻表が刊行された。いわゆる「交通公社の時刻表」が復刻されたもので、開業時の東海道新幹線の時刻表が載った1964年10月号と、その開業前夜に当たる1964年9月号の2冊。いずれもポケット版。当時のものがそのまま復刻された。なお、カバーは復刻版のためのもの。
 ページをくくるとあまりにも懐かしく興味深くて時のたつのも忘れてしまうほどだ。私は鉄道ファンだし、古い時刻表は国鉄時代のものやJR発足時のものなど節目のものを何冊か保存してあるが、この当時のものは手元になくてとてもありがたい。
 10月号には、10月1日開業の東海道新幹線の時刻表が載っている。ほぼ毎時00分にひかり号が出ているし、毎時30分にはこだま号が発車している。わかりやすいダイヤで、ひかり号には超、こだま号には特の記号が付され、ひかり号の停車駅は名古屋、京都、終点新大阪のみ。所要時間は4時間ちょうど。最高時速は200キロとなっており、在来線となる普通の特急列車は6時間30分を要していたから画期的で、〝超特急〟の名にふさわしい。また、こだま号は各駅に停車して、所要時間はちょうど5時間である。巻頭のグラビアページには「翼のないジェット機」とあって、東京-大阪間を日帰りできると謳っている。この10日後の10月10日には東京オリンピックの開幕を控えていたから国民の期待が肯ける。
 9月号10月号を見て感じることは、当時の路線数の多さ。現在と比べると一目瞭然で、鉄道が生活に産業に重要な位置を占めていたことがわかるし、当時の鉄道旅行は楽しかっただろうなと思われる。
 特に北海道が歴然としていて、現在の時刻表地図と比べてみると、当時は北の大地の隅々にまで鉄道網が発達していた。経営上の理由があったこととはいえ、どうしてここまでズタズタに削らなければならなかったのかと残念でならない。
 現在は廃線になってしまったが、名寄と深川を結び、朱鞠内湖のほとりを走る深名線など、日中の最高気温が零下20度を超す幻想的路線で、ダイヤモンドダストを初めて見たのもこの路線だった。また、私がJR全線踏破を達成した最後の線区留萌本線留萌-増毛間も今はなく寂しさが募る。
 青函連絡船も運航されていた。1日6便が青森と函館を結んでいたとある。所要4時間半。1度しか乗ったことがないが、デッキで飽かず海を眺めていた記憶がある。北海道は遠かったが旅はいつでもときめいて楽しかった。
 また、特急や急行、準急が全国津々浦々で多数運転されていたことも大きな特徴だった。特急には展望室がついているものもあって時刻表に展の記号が載っている。一方で、新幹線開業に伴って、東京-大阪間の昼間の特急は全廃となっている。新幹線の開業が在来線にしわ寄せする傾向はこのときから始まっていたのだ。

映画『パラサイト 半地下の家族』

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(写真1 映画館に掲示してあったポスターから引用)

臭いが狂気を生む

 半地下の部屋に住む4人家族が主人公。部屋の窓からは通りの地面が目の高さに見えていて、時々、窓のすぐそばで酔っ払って立ち小便をする者がいる。部屋の中はゴキブリが走り回っており、駆除の薬剤散布がまき散らす噴霧が開け放った窓から部屋に充満するが意に介さない。
 息子ギウは兵役から帰ってきたものの、2年続けて大学受験に失敗しているし、自動車運転手の父親キム・ギデクには仕事がない。何しろ、ソウルは警備員の募集に500人が応募してきたという就職難。美術学校に進みたい娘ギジョンも金がなくて予備校に行けないでいるし、母親チュンスクも家で宅配用のピザの箱を作る内職が細々とあるだけ。
 あるとき、ギウは友人から、アメリカに留学するので留守の間家庭教師のアルバイトを代わってくれと頼まれる。
 アルバイト先は、高台の高級住宅街にある豪邸。主人パクはまだ若いが会社社長の富裕層で、美しい妻ヨンギョと娘ダヘ息子ダソンの4人家族。家庭教師の仕事は受験勉強中の娘に英語を教えること。息子はまだいたずら坊主だが、美術に特異な才能が見られる。
 ギウはあるとき奥様ヨンギョからダソンにも美術を教えられる家庭教師がほしいと相談を持ちかけられる。そこで、ギウは妹のギジョンをいとこと偽って紹介する。
 やがてギジョンは、一計を案じて運転手を追い出し、後釜に父親のギテクを知人で評判のいい運転手と称して据えることことに成功。続けて家政婦も追い出し、母親のチュンスクを職業斡旋所の紹介とだましてもぐりこませる。
 こうしてキム一家は4人全員がパク家にパラサイト(寄生)することとなったのだった。ここまで映画はユーモアたっぷり。
 ここから先へストーリーを追うとネタバレになるので控えるが、キム一家とパク家とはすべてが対照的。
 特に決定的な違いは〝臭い〟だと言ったらわかりにくいだろうか。この臭いが最後には狂気をもたらす。
 脚本がいいし、とても面白い映画。終始緊張感もあり、全編にユーモアが感じられるし、ミステリアスであり、社会性もあって、極上のエンターテイメントである。
 本作は、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞したし、このたびのアカデミー賞では作品賞や監督賞などに輝いた。アメリカ以外の作品が作品賞に輝いたのは初めてだということである。
 監督ホン・ジュノ。

及川昭伍さんを偲ぶ

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(写真1 ありし日の及川昭伍さん=山田武秋氏提供)

偉大な白堊人

 及川昭伍さんが2月14日亡くなられた。89歳だった。
 年末にお葉書を頂戴し盛岡に住居を移し療養生活を送ることとしましたとあって、新年になってからは寒中見舞いをいただいていて、治療のため入院したとあって、すぐにでもお見舞いに参上しようと思っていたところ、結局、直接お目にかかってお礼もお見舞いも申し上げられず、痛恨の極みとなった。
 及川さんは、東北大学から大蔵省に入り、経済企画庁で国民生活局長や総合計画局長などを歴任され、退官後は国民生活センター理事長にあった。この間、消費者問題に関する施策に取り組むなど消費者問題に造詣が深く、〝ミスター消費者問題〟と讃えられた。
 及川さんは、私にとって高校時代の大先輩だが、とても面倒見のいい人で、数々の薫陶をいただいた。気骨があり、深い見識と幅広い交友があり、その謦咳に接することができたことは私にとって大きな財産となった。
 わが母校は、明治13年の創立から現在に至るまで140年間校舎が四代続けて白かったところからいつしか「白堊校」と自称し、同窓会も白堊会と称している。
 そういうことで在京の同窓会組織も在京白堊会と名乗っていて、及川さんはその初代会長だった。
 郷土愛、母校愛の強い人で、多くの後輩を育成指導された。毎年開催されている在京白堊会の総会懇親会には、ふるさとを遠く離れた同窓会ながら毎年の参加者は90歳の大先輩から学生の若者まで300名を超し、強い絆を結ぶよすがとなっている。
  及川さんはお酒が好きで、よくたしなまわれた。酒好きが高じて、一時期は、自ら田植えをして酒米を育て、稲刈りを行い、酒蔵に頼んで自分独自の酒を造っていた。
 また、陶芸を趣味とされ、日本陶芸倶楽部正会員となるなどほとんど玄人はだしと評価されていた。これなども、あるいは酒器を作るのが目的だったのではないか。実際、そうやって楽しんでおられた。
 実は、及川さんには随分前になるが、作品を一つお願いしていて、その折には何がいいかと尋ねられるから遠慮なくマグカップと答えていた。
 そうしたら、昨年の12月の白堊芸術祭に出品されたマグカップは驚いたことに私のために制作したものだということだった。
 これは、染付で鳥獣戯画が絵付けされている。端正で上品な作品である。
 ほんの軽い気持ちでお願いしたことを覚えておいてくださって、しかも、今になって気がついてみれば、これは及川さん最後の作品ではないのか、体調のすぐれないところを振り絞って作陶したのではないのか、そのようにも思えてくる。
 できの悪い後輩にもきちんと約束を果たされて、今はただただご冥福をお祈り申し上げるばかりである。

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(写真2 及川昭伍作「マグカップ」)

釧網本線旧五十石駅の車掌車

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(写真1 旧五十石駅)

シリーズ車掌車を訪ねて

 このたび釧網本線の古い資料を調べていて見つけた。2010年2月13日撮影とある。
 五十石駅は、釧網本線で、茅沼と標茶の中間にあった駅で、2017年3月4日に廃止となってしまった。
 当地周辺で釧路川の舟運に五十石船が往来していたところからこの名がついたと言われている。
 駅舎に使用されている車掌車は、形式はヨ3500形あるいはヨ5000形であろうか。私には外観だけからではその違いはわからない。
 雪に埋もれてはいるが、雪に踏み跡がいくつかあり、利用者が全くなかったわけでもないようだ。記録によれば、廃止直前の利用者は1日あたり1人だったという。
 車掌車を駅舎として転用する例は北海道に多い。特に宗谷本線に多く、根室本線にも少なくない。釧網本線は度々乗車しているが、この駅のことは自分で撮影までしているのにすっかり失念していた。
 なお、この駅舎が現在も残っているかどうかはわからない。昨年通ったばかりだが、確認を怠った。
 また、このたび調べてわかったが、この五十石駅から網走方三つ隣の南弟子屈駅も車掌車転用の駅舎だということである。

旅情深い釧網本線

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特集 私の好きな鉄道車窓風景10選

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(写真1 車窓からオホーツク海に見える流氷。止別駅付近=2010年2月13日)

夏で良し冬なお良し

 釧網本線は、四季折々に訪ねてとても美しい路線。特に冬がいいし夏もいい。沿線は二つの全く異なる表情を見せていて、上りでも下り列車でも座席は左窓にするか右窓にするか迷うところ。いずれにしろひとり旅が似合うところでもある。
 釧網本線とは、網走駅と東釧路を結ぶ路線で、北海道の東部を南北に貫いている。全線166.2キロ。
 まずは冬の釧網本線に乗ってみよう。流氷が接岸する厳冬期がいい。釧網本線の釧路方はすべての列車が釧路発着である。
 初めて釧網本線に乗ったのは1989年2月25日だった。このときは根室に泊まっていて、早朝に根室を出て釧路発の列車に乗り換えたのだった。釧路駅ホームのそば屋で朝食にそばを食べ、ついでに持参していた魔法瓶に熱湯を注いでもらったことを昨日のことのように覚えている。道中、コーヒーを飲むためで、このためマグカップやインスタントコーヒーを常に携行していた。この頃ではコンビニでも手軽に熱いコーヒーが買えるからその必要もなくなったが。

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(写真2 釧路駅で発車を待つ網走行き5時59分発一番列車=2010年2月13日)

 ここでは、2010年2月13日のノートをひもといてみよう。このときも根室を訪ねていたのだが、とって返して宿は釧路にとっていた。それは釧路発の早朝一番列車に乗りたいからで、釧路5時59分発網走行き。1両のディーゼル列車で、ワンマン運転。車両はキハ54か。朝まだ明け切らぬ気温零下15度という厳寒のなかぶるぶると車体を震わせながら走り出した。
 なぜかくも早朝列車かというと、これはこの時期のこの釧網本線の特有の車窓風景を楽しむためという理由による。
 一つは釧路湿原でタンチョウ(丹頂)を見たいからで、もう一つはオホーツク沿岸に出たところで流氷をとらえたいからに他ならない。しかもこの二つの条件をよく満たすためには早朝が最善なのである。

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(写真3 早朝にもかかわらず乗客の多い網走行き列車=2010年2月13日)

 それで困ったことが一つある。座席を右に陣取るか、左にするかということ。つまり、釧路湿原のあたりは左窓がよく、流氷を見るためには右窓でなければならない。空いていれば左に右に自在に動けるが、案の定この日も早朝にもかかわらずボックスは満席。そこでここでは流氷を主眼において右に座席を確保した。

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(写真4 結氷して霧が発生している釧路川=2010年2月13日)

 釧路を出て10数分後、ちょうど明るくなった頃釧路湿原にさしかかった。ここから細岡、塘路、茅沼と湿原が続く。並行している釧路川が結氷している。霧が川面を覆っている。
 釧路湿原の広大さが感じられるが、この間約15キロ、20分ほどをずうっとデッキに立っていた。左窓の座席を断念したためには仕方がない。
 車室内とは違ってデッキはかなり冷え込むのだが、我慢していた甲斐があった。

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(写真5 茅沼駅付近で見つけたタンチョウ=2010年2月13日)

 茅沼駅に入る直前でタンチョウを見つけたのである。それも駅に到着するので列車が減速していたからよかった。
 頭から首のあたりまでが黒く、羽は真っ白。それがやはり真っ白の雪原に1本足で立っている。鶴の仲間でもタンチョウは最も風情があるのではないか。雪の原野に静かに時間が流れる純白の世界の趣がある。白鳥とも違って独特の風格がある。1羽しかいなかったがしっかりとカメラに収めることができた。
 この先、車窓からは見えないが右に摩周湖と左に屈斜路湖の麓を抜け、川湯温泉を過ぎたあたりから右手に斜里岳が見えてきて、知床斜里8時33分着。ここから釧網本線は網走まで右窓にオホーツク海を見ながら進む。
 ほどなく流氷が見えてきた。海が見渡す限りどこまでも氷で覆われている。圧倒的感動だ。今まさにここでしか見られない景色だ。氷の上を歩いてどこまでも行ってみたいという誘惑にかられた。氷のブロックとブロックが押し合いへし合いしてぎしぎしときしむ音までもが聞こえてくるようだ。
 ただ、列車が進むほどに流氷は岸から離れていっているようだ。この流氷が岸辺近くで見られていたのは次の止別あたりまで。浜小清水、北浜と進むうちに海は青々としてきて、流氷ははるか沖合に離れていったようだった。

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(写真6 流氷砕氷船=2010年2月13日)

 そうこうして網走9時18分着。この後、流氷砕氷船に乗船する計画で予約もしてあったのだが、流氷は離れていってしまっていて、船で沖合まで追いかけていっても遠望するだけだろうというので断念した。
 ところで、北海道の普通列車の車両は窓が二重になっている。もとより寒さを防ぐためだが、その外側の窓ガラスには雪や水滴が凍りつく。こうなると景色が満足に見られなくなるから拭き取ろうとするのだが、これがこびりついてなかなか容易には剥がれない。それで活躍するのが金タワシ。
 これは厳冬期の北海道を度々旅行している経験が生み出した知恵で、金タワシ(台所用のステンレス製が最良)を自分は厳冬期北海道の汽車旅には必需品としている。ところが、このたびは釧網本線でも窓は曇りすらしなかった。
 かつては、釧網本線でも名寄本線でも、列車が停車するとホームに飛び出して金タワシでごりごりやったものだった。この様子を見て、地元の人たちはアイディアに感心するやら、ばかばかしさにあきれるやらしていたものだが、その苦労もなくなった。ありがたいことではあるが、何か張り合いもない。車両の機密性がよくなったせいなのか、あるいは北海道が暖冬化したことによるものなのかどうか。

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(写真7網走駅=2017年7月3日)

 夏の釧網本線は網走から出発しよう。網走から釧路まで乗り通せる列車は日に5本しかない。ここでは始発列車に乗った。網走6時41分発釧路行き普通列車。2番線からの発車で、1両のディーゼル。ワンマン運転。

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(写真8 北浜駅=2006年9月22日)

 発車して間もなく海岸に出た。左窓がオホーツク海である。朝日がまぶしい。車内はまずまず混んでいる。大半が観光客のようだ。

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(写真9 まるで千社札のように名刺などが張られている北浜駅待合室=2006年9月22日)

 16分で北浜。海に最も近い駅として知られ、観光客に人気。ここの待合室にはまるで千社札のようにおびただしいほどの名刺が張られている。どの人も足跡を残したくなるそれほどの旅情を感じさせる駅なのであろう。駅舎内にはカフェもある。

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(写真10 オホーツク海に沿って走る釧網本線釧路行き単行=2017年7月3日)

また、展望デッキもあって写真撮影には格好である。2階建てくらいの高さだが、正面がオホーツク海で、左右に目を転じれば、海沿いに走る釧網本線の鉄路が茫漠とした景色の中に1本の線となっている。二人連れの若い女性が降りた。しかし、ここで下車してしまうと次の釧路行きの列車まで4時間も間があるがどうするのだろう。

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(写真11 花が咲き乱れる原生花園駅。奥は濤沸湖=2017年7月3日)

 次が原生花園。ここも色とりどりの花が咲き乱れていて人気の駅。この列車からは誰も降りなかったが、駅前には数多くの車が駐車されている。北海道旅行は、よほどの鉄道ファンでもない限り自動車が主力である。なお、原生花園駅は5月から10月の期間だけの臨時駅で、ログハウス風の木造のしゃれた駅舎に片面1線のホームがある。
 砂地の丘陵に木道が敷かれていて、6月から8月がハイシーズンなそうで、ちょうど色とりどりの花が咲いていた。その種類は数十種にも上るらしいが、私にわかるのは黄色いエゾキスゲやピンクのハマナスくらい。また、エゾキスゲよりも濃い黄色で赤みがかったのはエゾカンゾウだったか。いずれにしても短い夏の花畑である。
 左窓にばかり目がいきがちだが、右窓に目をやれば地面すれすれに沼が広がっている。濤沸湖である。それが延々10キロほども続いている。つまり、線路は海と湖の狭い間を縫うように走っているということになる。

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(写真12 知床観光の玄関口知床斜里駅。駅舎は新しくなった。=2019年8月6日)

 やがて知床斜里。海岸線はここまで。乗客の大半が下車した。知床観光の玄関口である。この日は天候もよく風もなかったから知床岬を巡る観光船も運航されているのではないか。ここで網走行きの列車と交換が行われていたが、釧網本線はここでオホーツク海と別れ山間へと分け入っていく。

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(写真13 斜里岳=2019年8月6日)

 左窓に斜里岳が遠望できる。1,547メートルあり、日本百名山の一つである。川湯温泉に向けて25‰の登り。摩周で乗降が多かった。大半は地元の人たち。摩周湖は人気の湖だが、〝霧の摩周湖〟と呼ばれるほどに霧に覆われていることが多くて、3度訪ねて2度は霧だった。
 ここから釧路川が右に並行してきた。標茶(しべちゃ)の次ぎに五十石という駅があったはずだがいつの間にか廃駅になっていた。それで次の茅沼までの間が大きく開き、駅間距離が14キロにも広がった。

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(写真14 釧路川ではカヌーを楽しむ姿が見えた=2019年8月6日)

 このあたりから釧路湿原に入っていて、塘路、細岡と茫漠として風景が広がる。夏のこの時分にはカヌーを楽しむ人たちの姿が見えた。塘路の駅前ではカヌーツアーのガイドが客待ちをしていた。また、ここにはユースホステルもあって、北海道旅行を楽しむ若者たちでにぎわっていたものだった。ツアーガイドに聞いたら、ユースホステルは今も営業しているとのこと。
 湿原を抜けると東釧路。根室本線との合流点で、釧網本線はここまでが線区。166.2キロ。ただし、全ての列車は次の釧路が発着。10時00分着。

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(写真15 釧路駅=2017年7月3日)

 釧路は道東の中心となる大きな駅。乗り継ぐ次の列車まで1時間半ほどの間があり、遅い朝食と早い昼食を兼ねて駅前の和商市場へ。釧路随一のマーケットで、観光客の姿が多い。これも釧路名物のような〝勝手丼〟を食べた。まず初めにごはんをどんぶりに購入し、あちこちの店をのぞきながら好きな具を載せていくやり方。私は、イカ、タコ、カンパチ、牡丹エビでどんぶりを作った。新鮮な魚ばかりだからうまい。なお、大好物のシマアジを頼んだら、そんな魚は知らないと素っ気ない返事だった。ところ変われば品変わるということだろうか。あるいは魚はあるのだが、呼び名が違うと言うことも往々にしてある。
 網走から釧路まで通して乗れば約3時間20分の長い鉄道旅。しかし、網走、釧路がそもそも味わい深い町だし、途中には変化に富んだ景観があって素晴らしい路線である。絶景路線として挙げる人は少ないようだが、私には全国で十指に入る魅力的な路線だと思われる。

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(写真16 釧路駅前にある和商市場の様子=2017年7月3日)

路線概要
種類/普通鉄道(在来線・地方交通線)
起点/網走駅
終点/東釧路駅
管轄/北海道旅客鉄道(第一種鉄道事業)
区間(営業キロ)/網走駅-東釧路駅(166.2キロ)
駅数/27駅(起終点駅含む、うち1駅は臨時駅)
軌間/1,067ミリ(狭軌)
複線区間/なし(全線単線)
電化区間/なし(全線非電化)
最高速度/時速80キロ
開業/1924年11月15日(網走本線)、1927年9月15日(釧網線)
全通/1931年9月20日
民営化/1987年4月1日