ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

新線開業の相鉄-JR直通線に乗る

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(写真1 相鉄-JR直通線の新駅羽沢横浜国大駅外観)

相鉄が悲願の都心乗り入れ

 昨年11月30日に新線開業した相鉄・JR直通線に乗った。
 相鉄(相模鉄道)は、横浜を起点に神奈川県の主に中心部に路線網を持つ大手私鉄の一角。横浜-海老名間の本線(24.6キロ)や本線上の二俣川から分岐して湘南台へと伸びるいずみ野線(21.6キロ)があり、さらにこのたび本線上の西谷からJRに直通する新線を開業させて、悲願の都心乗り入れを実現した。これまで、都心乗り入れのない唯一の大手私鉄だった。
 相鉄-JR直通線は、まず、相鉄が、相鉄新横浜線を建設し、西谷から新設の羽沢横浜国大間を結び、羽沢横浜国大からは、JRが隣接している東海道貨物線(線属は東海道線)の横浜羽沢駅を改修してつなげ、武蔵小杉で埼京線に直通し、相鉄、JRが相互直通運転を行っている。
 列車は、相鉄の海老名から本線上を走って西谷で相鉄-JR直通線に入り羽沢横浜国大を経てJR線に乗り入れて武蔵小杉につなげ、埼京線を使って大崎、目黒、渋谷などから新宿へ至る。なお、さらに進んで大宮、川越へと至る列車もある。
 これによって、相鉄沿線の二俣川などから大崎、五反田などを結ぶ利便性が向上した。また、相鉄としては横浜を経由しないで都心に直結する路線を実現したことになる。ただし、海老名は小田急との接続駅だが、ここから新宿へ向かうには、相鉄線を利用する人は少ないのではないか。時間、運賃ともに相鉄利用の方がかかるからだ。
 なお、相鉄-JR直通線は、特にJR側で所属線区が複雑で特例事項が多いのだが、運賃計算上の営業距離を単純に計算すれば、相鉄区間の西谷-羽沢横浜国大間が21キロとなり、JR線への連絡線も含めれば2.7キロとなる。また、JR区間である羽沢横浜国大-武蔵小杉間は16.6キロであり、ちなみに、路線区間としての新宿-海老名間は18駅、57.0キロとなっている。

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(写真2 西谷4番線ホームに入ってきた新宿行き列車)

 さて、12月27日西谷駅。4番線に海老名からの相鉄-JR直通線経由新宿行きの列車が入ってきた。濃い青色をした塗色で、ヨコハマネイビーブルーと呼ばれるらしい。10両編成で、相鉄の12000系新型車両である。16時22分の発車。すぐそばを新幹線が抜けていった。
 発車してまもなく羽沢横浜国大到着。全くの新駅である。谷を切り拓いた様子で、周辺にはまだ何もない。相鉄、JR共同使用駅で、管理は相鉄。対面する2面2線のホームが地下にある。ここで相鉄からJRに乗務員が交代した。ここで発車案内を聞いていたら「埼京線直通」となっていた。
 羽沢横浜国大から隣駅武蔵小杉まで何と14分を要した。駅間距離が16.6キロもあってまるで北海道の路線のように長いが、どうやら複雑なルートを通っているようで、鶴見駅のすぐそばを抜けて武蔵小杉に出ている。貨物線の応用だからこうなるのだろう。とにかく、JRは貨物線からの転用が得意だ。

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(写真3 武蔵小杉4番線ホームに到着した新宿行き電車)

 武蔵小杉では4番線埼京線ホームに到着した。湘南新宿ラインや横須賀線、南武線に東急線も接続する大きな駅。ここまで来れば西大井を経て大崎はすぐだ。
 なお、実は、相鉄-JR直通線には年をまたいで12月27日と1月3日に乗りに出かけていた。写真の取りこぼしをカバーするためだった。それで、海老名から乗った電車は、発車すると一つ目かしわ台で左窓に車両基地が見えた。相鉄車両とJR車両が並んで留置されていた。また、湘南台からも乗ってみたが、西谷からの乗り換えはスムーズだった。
 一方、相鉄では、将来的に、新横浜線を羽沢横浜国大から新横浜(仮称)に延伸させ、さらに相鉄-東急直通線を建設して東急に接続させたい計画だ。2022年度下期の開業を予定している。

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(写真3 相鉄海老名駅ホーム。左2番線が相鉄-JR直通線新宿行き電車。車両はJRのE233系7000番台=1月3日撮影)

夕暮れの鮫角灯台

 

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(写真1 夕暮れの鮫角灯台)

沖合にイカ漁の漁り火

 五能線をきっちり乗った後は青森を経て八戸へ。おいしい酒と肴が欲しくてここに宿を取った。11月30日。
 八戸駅に着いたらまだ午後4時前。どうしてもと当初から計画したものではなかったが、まだ陽もあるし足を伸ばして鮫角(さめかど)灯台を目指した。今日は艫作埼灯台で遭難しかかったばかり。それなのにまたまた灯台とは何事か。そう思わないではなかったがそこはやはり灯台好き。
 八戸からは八戸線で鮫へ、約20分。ところが、乗っているうちに陽がどんどん落ちていく。つるべ落としという言葉その通りだ。鮫に着いたらまだ4時半前なのにもう薄暗い。躊躇がないわけはなかったが、鮫角灯台は車で入れるところ。タクシーで約5分。灯台に着いたら暗くなっていたが、灯台は目の前。

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(写真2 鮫角灯台の上部)

 夕闇に真っ白い灯台がすっくと立っている。とても姿がいい。灯台はすでに点灯している。ただ、光跡がくっきりとはわからない。まだ、さほど暗くはないのだ。灯器はLB型であろうか。
 沖合を見ると、水平線近くが燃えたように明るくなっている。その幅数キロ。対岸があるはずもなく、ふと気がついた。イカ漁の漁り火だったのである。幻想的である。そう言えば、八戸の漁港はイカの水揚げで有名だった。
 鮫角灯台は、4月から10月の間だけだが一般公開を行っている。参観灯台の仲間入りをしたわけで、八戸市が灯台を観光に積極的に活用しているのは好ましい。
 三陸海岸を北上してくると、魹ヶ埼灯台、陸中黒埼灯台の次が鮫角灯台。八戸港の入口を照らす。この先は下北半島の尻屋埼灯台ということになる。
 鮫角灯台は高台にあり、足下の海岸沿いに八戸線が走っている。高いところにあるから気がつく人は少ないかもしれないが、車窓から見える灯台ということでは全国でも屈指の美しさだ。
 ところで、鮫角灯台の位置は、北緯40度32分24秒。日本海側の艫作埼灯台は北緯40度36分8秒だから、ほお同じ緯度線上ということになる。同じ日に日本海側と太平洋側と同じ緯度線上の灯台に立つというのも珍しいこと。
 ちなみに、この二つの灯台より少しだけ南にある、日本海側の入道埼灯台と、太平洋側の陸中黒埼灯台はぴったり北緯40度線上である。
 日本の灯台50選に選ばれている。

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(写真3 八戸線車窓から見上げた鮫角灯台=2019年3月24日)

<鮫角灯台メモ>(「灯台表」等から引用)
 航路標識番号1625(国際番号M6620)
 名称/鮫角灯台
 所在地/青森県八戸市鮫町
 位置/北緯40度32分4秒 東経141度34分6秒
 塗色・構造/白塔形 コンクリート造
 塔高/23メートル
 灯火標高/58メートル
 灯質/単閃白光毎8秒に1閃光
 実効光度/10万カンデラ
 光達距離/20海里
 初点灯/1938年(昭和13年)2月16日

艫作埼灯台

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(写真1 麓から見上げた艫作埼灯台)

灯台はヤブの中

 男鹿半島の突端、入道崎を過ぎて日本海を北上していくと次ぎに見えてくるのは艫作埼(へなしさき)灯台だ。不老ふ死温泉はこの麓にある。ウェスパ椿山駅から送迎バスで不老不死温泉に降り立つと後背の丘の上に艫作埼燈台が見えた。ここを訪れるのは初めてではなかったのだが、あまりに近くてびっくりした。午後4時を過ぎたばかりだったが灯台はもう点灯していた。
 最寄り駅は艫作で、徒歩15分ほど。駅から線路を渡って海岸に向かって歩いてくると灯台入口の表札があり、その角に「五能線全通記念碑」という立派な石碑がある。昭和10年7月30日建立とあった。

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(写真2 ヤブの中から顔を出している灯台)

 実は、ホテルに聞くと夜明けは6時半頃というので、灯りが灯っているうちに灯台が見たくて、5時半頃にホテルを出て灯台への坂道を登っていった。すると、15分ほどでくだんの記念碑があり、左折して灯台を目指した。
 ここからは10分ほどだということだったが、どこでどう道を間違えたのか、行けども灯台は姿を現さない。人跡は1本しかなかったのだが。
 そのうち背の高さほどのヤブに取り囲まれて身動きが取れなくなった。しかもまずいことにつまずいて転んでしまったら、情けないことに起き上がることもできなくなってしまった。気温は零下4度とあって体温が急速に奪われていく。
 ここで遭難というわけにも行かず体力気力を振り絞って何とか起ち上がった。ところが、よせばいいのに、灯台を見つけたくて再度探し回っているうちにこんどは完全に道に迷ってしまった。灯台は見えているのにヤブが深くて近づけない。というよりも、道らしい道はそもそもなかったのである。
 そのうち、遅ればせながら危機的状況にやっと気がついてしばらくうろうろしたあげく何とか脱出した。ホテルに帰り着いたら8時半を回っていた。
 この間約3時間。コートからズボンから泥だらけになって家内の前に姿を見せたらひどく叱られた。返す言葉もなかったが、実際、これほどひどい灯台行は経験のないことで大いに反省した。
 結局、灯台はそばで見ることはできなかったが、すらりとしてなかなか姿がいい。大型灯台であろう。かつては3等フレネルレンズだったらしいが、遠かったのではっきりしないが、灯器はLB型であろうか。

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(写真3 8年前の2011年7月17日に見た灯台)

<艫作埼灯台メモ>(「灯台表」等から引用)
 航路標識番号1425(国際番号M7055)
 名称/艫作埼灯台
 所在地/青森県西津軽郡深浦町舮作
 位置/北緯40度36分8秒 東経139度51分8秒
 塗色・構造/白塔形
 塔高/24メートル
 灯火標高/68メートル
 灯質/単閃白光毎10秒に1閃光
 実効光度/77万カンデラ
 光達距離/21海里
 初点灯/昭和16年(1941)9月15日

黄金﨑不老ふ死温泉

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(写真1 不老ふ死温泉の名物海辺の露天風呂=2011年7月17日撮影=現在は撮影禁止になっている)

海辺の露天風呂が人気

 このたびの五能線の旅では、途中下車し黄金﨑不老ふ死温泉に泊まった。
 五能線を東能代から海沿いに北上していくと快速列車で約1時間10分ウェスパ椿山。徒歩なら15分ほどの艫作が最寄り駅だが、一つ手前の椿山から送迎バスが出ていた。青森県深浦町所在。
  艫作﨑の先端にあり、一軒宿。近年増築したらしく、新館も含め大きな構えになっていた。人気が高まっているのだろうと思われ、来るときに椿山で下車した10数人全員が送迎バスに乗ってきた。大半が中高年の夫婦あるいはグループだった。また、夕食時に気がついたが、宿泊客は6、70人にもなっているようでびっくりした。そのほとんどは自動車でやってきたようだった。
 風呂は、濃い茶色。なめてみると舌がビリッとした。泉質は含鉄-ナトリウム-塩化物強塩泉(高張性中性高温泉)で、pHは6.14、泉温は48.3度と表示にあった。源泉掛け流しだが、入浴に適した温度に保つために加水しているとのこと。注入温度45度、浴槽温度42度とあって、きちんとした説明は好感が持てた。熱いのが好きな私にはもう1度くらい高くてもいいように思われたが、とても温まっていい温泉だった。
 ところで、人気の露天風呂。利用時間は日の出から日が没するまで。この日は到着したのがすでに夕方だったし、寒くて露天風呂には入らなかった。
 建物から百メートルほど離れた海辺にあって野趣溢れた温泉である。8年前の夏に来たことがあって、湯船に浸かると目線が波と同じ高さになって滅多に得られない体験だった。晴れた夕方ならばさぞかし夕陽が美しいのだろうと思われた。
 なお、この露天風呂の写真撮影は禁止だとのこと。トラブルが相次いだためのようで、初めてきたときにはそういう制限もなかった。

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(写真2 不老ふ死温泉の玄関)

二つの車窓風景を持つ五能線の旅

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私の好きな鉄道車窓風景10選

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(写真1 車窓には荒々しい岩礁が連なっている。遠くに夕陽が没する様子。時刻は15時39分とカメラにある。晴れていればさぞかし美しかったものであろう)

荒々しい海岸線と豊かな田園地帯

  五能線は二つの車窓風景を持っている。一つは絶景が続く荒々しい海岸線だし、もう一つは岩木山の裾野をぐるっと回る穏やかな内陸部だ。また、海岸線だけなら五能線は冬がいいし、内陸部ならりんごの花が咲く春から初夏がいいし、りんごの実があかあかと色づく秋も捨てがたい。だから、五能線の車窓を堪能するなら様々な季節に出掛けるのがいい。
 五能線は、秋田県の東能代駅と青森県の川部駅を結ぶ路線。両駅とも奥羽本線上にある。全線147.2キロ。大きくは白神山地をぐるっと回り込むようになっていて、初め日本海を北上し、鰺ヶ沢から内陸部へと分け入る。

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(写真2 リゾートしらがみ5号、青池編成の列車である)

 11月29日五能線に乗りに出かけた。まずは上野9時14分発のこまち9号で秋田へ。13時04分着。ここで13時52分発リゾートしらかみ5号五能線経由青森行きに乗り継ぎ。1日3本運行されている全席指定の季節運転の観光列車で、窓が大きいし、車両の前後には展望座席もあった。列車番号によって愛称がついていて、私たちが乗ったのは青池編成だった。各編成によってボックス席があったりと少しずつ座席配置が異なるようだ。
 窓外は雪が舞っている。広大な八郎潟を左窓に見ながら進む。八郎潟はかつては琵琶湖に次ぐ湖だった。私は干拓前の八郎潟を見たことはないが、干拓されてどこまでも広がる田んぼはかえって八郎潟の広さを実感できるようだった。

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(写真3 五能線の起点東能代駅ホーム)

 東能代到着。奥羽本線を走ってきたが、ここからが五能線。ホームの端に五能線起点駅の表示があった。7分停車して14時55分の発車。
 私たちの席は進行右側。五能線は海岸沿いの区間は断然左側の席がいい。しかし、切符を買いに行ったら左側の席はすでに満席だった。4両編成の快速列車だが人気なのであろう。
 能代を経てしばらく陸地を走っていたが、八森で海に出た。秋田音頭にある通りハタハタで知られる。大間越、十二湖。艫作﨑が遠望できてウェスパ椿山到着。リゾート地で、洋風の建物が点在していた。なお、椿山は全国各地にある地名だが、ここは、この周辺が椿の咲く北限から名づけられたものであろうか。この日はここまで。
 ウェスパ椿山からは翌30日に乗り継いだ。8時59分発弘前行きに乗車。東能代から川部まで五能線内をきっちり乗り通せるわずかに1日2本の普通列車である。途中での乗り継ぎも含めれば4本ある。車両のことはあまり詳しくはないがキハ40であろうか。3両編成だが、最後部の1両は深浦までは回送扱いとなっていた。
 少ししてその深浦。沿線の中心。乗っている車両はそのままだが、列車番号がここで変わった。

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(写真4 冬の日本海特有に鈍色の空と海)

 そしてこの前後からが五能線のハイライト区間。岩礁が荒々しい風景を際立たせ、鈍色の日本海が荒涼として広がる。追良瀬(おいらせ)、驫木(とどろき)、風合瀬(かそせ)と難読駅が続く。馬が三頭重なっていななくとはすごい。駅名を聞いただけで冬の厳しさがうかがい知れる。なお、驫木の駅前に真新しい住宅が1軒建っていた。以前はなかったように思うが。

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(写真5 海上の小島に見えた鳥居埼燈台。白地に赤帯2本が特徴)

 大戸瀬の手前あたりだったか、海上の小島に灯台が見えた。白地に赤横帯2本が特徴で、「灯台表」によれば鳥居埼燈台というらしい。なお、大戸瀬埼燈台はこの近く、高台にあるが、列車からは目撃できなかった。
 洗濯板のようにも見える千畳敷の海岸を経て鰺ヶ沢。かつて津軽藩海運の拠点だったところ。海岸線はここまで。この先は津軽平野となる。早くも岩木山が右窓に見えてきた。ここから先は進行右側の席が良い。列車は幸い空いていたので、左から右へと席を移動した。
 五所川原は沿線随一。ここから津軽鉄道が津軽中里まで北へ伸びている。途中に太宰治の生家がある金木駅がある。ストーブ列車で有名だが、今日は寄らない。

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(写真6 曇っていてすっきりとはしていないが岩木山が最も美しく見える区間)

 岩木山がますます近づいてきた。通称津軽富士。美しい山容だ。林崎のあたりだったか、隣のボックス席に座っていたおばあさんが、小学校3年生くらいか、連れの孫に「このあたりから見る岩木山が一番美しいんだよ」と教えていた。なるほど、実際、美しい。沿線にはりんごの木が目立つ。雪を被っている。

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(写真7 川部駅ホームには五能線終点の標識)

 そうこうして川部到着。奥羽本線との合流駅。11時39分。ホームには「五能線終点駅147KM137M」との看板があった。五能線はここまでだが、すべての列車はここで反転して弘前へと向かう。
 近年では観光列車まで走るようになった五能線だが、かつては鉄道ファンの間でわずかに知る人ぞ知るような地味な路線だった。
  初めて五能線に乗ったのは1989年6月18日だった。ちょうど30年前ということになる。この時は、龍飛崎を訪ねた後弘前に宿を取っていて、翌早朝五能線に乗ったのだった。当時の時刻表によると、川部から東能代まで行く列車は途中駅での乗り継ぎを含めても4本しかなかった。当時は観光列車など運転されていなかった。もっとも、季節運転の観光列車を除けば普通列車の運転状況は現在と変わらない。

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(写真8 1989年6月18日の乗車では、左窓に続くりんご畑ではりんごに袋をかぶせる作業が行われていた。けだし、津軽の春の風物詩だろう)

 この時のノートによれば、弘前6時52分発鰺ヶ沢行きの列車に乗車、「沿線にりんご畑が続く。ちょうど選別の季節らしく、袋をかぶせている」とある。岩木山は残念ながら雲に隠れて見えなかったようだ。五所川原で30分も停車。
 やがて終点鰺ヶ沢到着。6月も中旬なのに服装にはまだ衣替えをしていないような人たちが多い。
 車窓は右が日本海。東能代に向かう列車だから気がついたが、前方遠く男鹿半島が見えている写真があった。
 東能代到着は11時45分で、川部から実に4時間40分ほどの乗車である。もっとも、現在でも直通列車ですら4時間20分ほど要しているから事情はさほど変わってはいない。
 五能線は好きな路線だから、これまでに全線を通しては4回乗ったし、一部区間の乗車も含めると6回も乗っている。
 春にも秋にも、夏にも冬にも乗っているが、どの季節にも魅力があるのだが、もっとも印象深いのはやはり厳冬期か。今からちょうど10年前の2009年には2月7日に乗った。この時は、前夜上野発21時45分発の寝台特急あけぼのに乗り翌7日に東能代に降り立ったのだった。秋田では早朝にもかかわらずホームで温かい弁当の販売があったし、東能代ではホーム反対側で五能線列車がすでにアイドリングして発車を待っていた。
 こういう瞬間が激しく旅情を感じるときで、思えばかつての岬への旅は、この時のように金曜夜の夜行寝台で九州へ、四国へ、山陰へと向かったものだった。早朝の青森駅に降り立ったときなど、あまりの大雪におののき寂しくなり、そのまま引き返したくなるような気分のこともあった。

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(写真9 寝台特急あけぼのの車内=2009年2月7日)

及川昭伍作『マグカップ』

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(写真1 及川昭伍作『マグカップ』)

端正で上品な作品

 及川昭伍作の染付である。鳥獣戯画が絵付けされている。
 及川さんは、経済企画庁総合計画局長から国民生活センター理事長などを歴任された。早くから陶芸にいそしんでいたようで、日本陶芸倶楽部正会員であり、今や玄人はだし。
 及川さんは、私の高校時代の尊敬する大先輩。及川さんの陶芸家ぶりは著名で、私もかねて作品を熱望していた。
 そうしたところ、このたび高校時代の同窓会が主催している白堊芸術祭に出品された作品を下さったというわけ。及川さんからはどんなものがいいのかとかつて尋ねられてはいたものの、まさか実現するとは思いもよらず大変感激した。
 作品は染付である。鳥獣戯画が絵付けされている。白い地に藍青色の模様が施されており、まことに端正なもので上品である。私は陶芸のことは何もわからないが、造形もすばらしく、完成度が高いのではないか。
 高さ直径ともに約8センチあり、手に持って馴染む。これでコーヒーを淹れたらさぞかしおいしいものだろうとは思うが、もったいなくて普段遣いにはできない。
  箱書きには、「染付鳥獣戯画 マグカップ 米寿及川昭伍」と墨書きされ、落款が押印されている。

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(写真2 作品の箱書き)

金子三勇士ピアノコンサート

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(写真1 開演前の会場の様子)

新しい時代をつくるクラシック

 12月2日新宿文化センター大ホールで開催された。
 金子三勇士(かねこみゆじ)は、人気の若手ピアニスト。群馬県高崎市生まれ30歳。父日本人、母ハンガリー人。バルトーク国際ピアノコンクール優勝ほか数々の国際コンクールで優勝の輝かしいキャリアを持つ。東京音大首席卒業。
 この日の演奏会は、住友生命のチャリティコンサートとして開催されたもので、私は初めてだったが、すでに33回、全国縦断1058回の公演を数えるらしい。
 新しい時代をつくるクラシックとタイトルがつけられており、とても親しみやすい曲が選ばれていた。また、演奏スタイルも斬新で、ピアニスト自身がユーモアたっぷりに進行役を兼ねながら曲の解説をしたりしてとても和やかなものだった。
 演目は、初めに革命のエチュード、夜想曲「遺作」、子犬のワルツとショパンの3曲、ドビュッシー「月の光」、ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」と続いた。「月光」は新しい解釈によるものなそうで、なるほど、慣れ親しんだ曲想とは異なっていた。
 休憩の後、バルトークのピアノソナタ。バルトークはハンガリーのピアニストであり作曲家。難曲と解説していたが、ピアノが壊れるのではないかと心配になるほどの激しい曲を圧倒的迫力で演奏していた。
 次からリストが3曲。リストもハンガリーのピアニスト、作曲家。シューマン=リスト「献呈」、「愛の夢」と続き最後は「ラ・カンパネラ」。あまりにも有名な曲で、私でも口ずさむことができるほどの美しいメロディで始まり、金子の演奏は聞き惚れるほどのすばらしい演奏だった。
 ところで、前半の演奏では何か落ち着かなさを感じていたが、休憩時間中に調律が行われていたから、あるいは演奏家から注文があったのかもしれない。私自身はコンサートの経験も少ないから何とも言えないが、演奏の途中で調律を行うというのはピアノでは珍しいのではないか。ピアノはスタインウエイだった。