ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

襟裳岬紀行

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特集 私の好きな岬と灯台10選

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(写真1 襟裳岬。襟裳岬灯台がわずかに頭をのぞかせている)

激しい旅情に涙する風の岬

 襟裳岬。何と激しい旅情を感じさせる岬か。強風に足を踏ん張って耐えながら岬の突端にたたずんで荒涼たる風景に身を置くと知らず瞼に涙がにじんでくる。
 岬はその地形上全国どこでも風は強いものだが、襟裳岬はことのほか年中強風に晒されていて、風速10メートル以上の風の吹く日が年間260日にも290日にもなるというから驚く。時には50メートル以上の暴風の吹く日もあるのだそうで、こうなると外を出歩くこともできないのだという。これはかつて泊まった旅館の女将が話してくれた。
 襟裳岬は、北海道の中央、背骨に当たる日高山脈が150キロも南に向かって伸び、太平洋に鋭く没したところ。現地に立っていてはその鋭さはさほど感じにくいのだが、航空写真で見ると、まるで石の矢じりのようにも見える。この様子は室戸岬にも似ている。
 襟裳岬はとても不便なところ。西側からなら、苫小牧から日高本線で約2時間20分、終点様似下車。更にバスで約32キロ50分のところ。東側からなら、帯広からかつての広尾線沿いをバスでひたすら南下して約2時間20分。更に広尾で乗り継ぎ約40キロ1時間の道のり。日高側からも十勝側からもほぼ等距離。私はこれまでに二度襟裳岬を訪れたが、いずれも様似から岬に向かい、広尾へ抜けた。

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(写真2 日高本線様似駅。初めて訪れた1988年には駅舎には商店も入っていた)

 初めて襟裳岬を踏破したのは1988年10月1日だった。この当時、岬巡りを意識して趣味とした初期の頃で、足繁く全国各地へ出掛けていた。地図を開いては次はどこへ行こうかと練っていたのだが、そういう中でも襟裳岬は熱望していたのだった。同じ月に室戸岬を訪ねているからよほど岬巡りに熱を上げていたのだろう。
 当時のノートをひもといてみると、苫小牧9時44分発普通637D列車様似行きに乗車したとある。3両編成で、右窓に大海原が広がり、様似13時25分到着だった。3時間41分の乗車ということになる。
 なお、北海道へは、この年の春に青函トンネルが開通し運行を開始した寝台特急北斗星1号でやってきたのだった。夕食は食堂車でフランス料理のフルコースを食べたことを今でも鮮明に思い出す。
 二度目は2010年2月11日だった。22年ぶりということになる。大好きな岬にしては間が空いているが、それだけ不便なところと言うこともできる。
 この時は、前夜空路札幌に入っていて、当日、苫小牧10時17分発2227D列車様似行きに乗車した。1両編成で、22年前は3両編成だったから、この間に乗客は激減したのであろう。様似13時35分の到着で、2時間18分の乗車。
 時代が進んで1時間以上も短縮されたのはいいが、ちなみに現在は、2015年の高波被害から断続的に発生した災害の影響で、鵡川-様似間が不通となっている。全線146.5キロのうち116.0キロもの区間が不通となっているわけで、JR北海道はこの間の廃止を表明している。襟裳岬はますます遠くなる。
 様似からはバスが出ている。路線名日勝線といい、実は、昔、様似から延伸して襟裳岬を経て広尾に至る鉄道路線としての日勝線の計画があった。現在はバスの路線名にその名が残っているわけだ。もし、鉄道路線が開通していれば、襟裳岬は一大観光地となっていたかも知れないし、わくわくするような路線だったのではないか。
 さて、二度目となった2010年2月11日。様似駅14時00分発JRバス日勝線広尾行き。乗客は発車時点でたった一人。途中から一人のお年寄りが乗ってきてすぐに降りたから道中の大半は貸し切りバスの様相だ。

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(写真3 襟裳岬のバス停留所)

 様似から約1時間で襟裳岬。坂道を登りながら目指す停留所が近づいたらバスの運転手が「風が強いので帽子を吹き飛ばされないよう注意してください」と丁寧にアナウンスしてくれた。帽子止めをしっかり締めて下車した。
 なるほどこの日も風が強い。真冬ということもあって、ほかに人っ子一人としていない岬は、耳がちぎれ頬が凍りついてしまうような寒さだ。岬周辺に樹木が一本も見当たらないからなおさら風が強いのだろう。

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(写真4 岬の先端からは沖合数十メートルにまで岩礁が転々と連なっている)

 岬は、日高山脈が鋭く海に突き出た形となっている。それも山脈の延長が段々と海に下ってきたという様相で、終わりは海岸段丘が絶壁となって海に落ちている。断崖は高さ約60メートル。さらにその先には岩礁が沖合数十メートルにまで点々と連なっている。

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(写真5 襟裳岬突端)

 劈頭に立つと、風が強くて足もとがふらつく。しかし見晴らしはいい。自分の立っている後背地を除いて遮るものはないから270度ほどの眺望だろうか。眼前に大きな太平洋が広がっている。両手を広げて崖から飛び降りたい、人間飛行機になれるのではないか、思わずそんな誘惑にかられる風情だし、風が強くとも、寒くとも、いつまでもたたずんでいたいと思わせる岬だ。

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(写真6 襟裳岬灯台)

 突端の一段と高い所に襟裳岬灯台が立っている。白亜のややずんぐりした灯台だ。塔高は13.7メートル。そう言えば、龍飛崎も神威岬も風の強い岬の灯台は背がやや低かった。

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(写真7 襟裳岬にある二つの歌碑。歌謡曲の歌詞で、手前が森進一)

 岬には、歌碑が二つある。いずれも襟裳岬を歌った歌謡曲のもので、一つは島倉千代子、今一つが森進一のもの。森進一の『襟裳岬』はレコード大賞にもなって襟裳岬を一躍有名にした。歌詞の〝何もない春〟はなるほど襟裳岬を上手に表現しているし、なおさら叙情をかき立てられる。私も劈頭に立って大きな声で歌ったが、風に吹き飛ばされて声が散ってしまった。

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(写真8 岬の付け根にある襟裳の集落。昆布漁で知られる)

 この日の宿は、岬からほど近い集落にある旅館にとった。この宿も、22年前に初めて訪れた時にも泊まった旅館だったのだが、建て替えられて新しくなっていたし、女将も母から娘へと代が変わったようだった。
 その女将の話によると、積雪はいつの年でも多くはないのだという。ただ、いつまでも寒くて、夏でも20度を超す日は何日もないから、季節に夏がないようなもので、季節は春、秋、冬と巡るのだと自身苦笑いしながら言っていた。
 また、風は本当に強くて、風のない日のほうが珍しいのだといい、だから、木はまっすぐに伸びられないし、高い木も育たないのだという。
 日本の灯台50選。

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(写真9 31年前1988年の襟裳岬に佇む筆者)

<襟裳岬灯台メモ>(「灯台表」、ウキペディア等から引用)
 航路標識番号0120(国際番号M6802)
 名称/襟裳岬灯台
 所在地/北海道幌泉郡えりも町
 位置/北緯41度55分33秒 東経143度14分38秒
 塗色・構造/白色塔形コンクリート造
 塔高/13.7メートル
 灯火標高/73.3メートル
 レンズ/第3等大型フレネル式
 灯質/単閃白光毎15秒に1閃光
 実効光度/72万カンデラ
 光達距離/22海里(約41キロ)
 明弧/全度
 初点灯/1889年6月25日(なお、初点灯時は第1灯だったらしい。第2次世界大戦で破壊された)
 管理事務所/第一管区海上保安本部

髙村薫『我らが少女A』

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ダイヤグラム上で誰が交差するのか

 池袋で風俗の若い女が同棲相手の男に殴打され殺された。この事件そのものは男が自首しており何の謎めいたところもないのだが、男は取り調べで、女がいつだったか使い古しの絵の具のチューブを男に見せて、何年か前に武蔵野の野川公園で殺された人が持っていたものだ、その場所に落ちていたから拾ったと語っていたと供述した。
 実は、この事件は、スケッチ中の老女が野川公園で殺されたもので、未解決事件となっていた。男の供述は未解決事件を扱う特命捜査対策室にもたらされ、12年ぶりに事件は動き出す。当時、事件の捜査責任者だったのは合田雄一郎で、奇しくも合田は野川公園にほど近いとこにある警察大学校の教官になっていた。
 ここから髙村のいつもの淡々とした物語が始まる。ディテールが徹底していて、まるで無言の動画を見ているようでもあり、動画を細大漏らさず文章化したようでもある。
 ところで私は、本を読みながら傍線を引いたり、余白にメモをしたりする習慣がある。この本ではいつになく傍線箇所が多かったが、傍線箇所をそのまま書き起こしてみた。どういう意味があるのか、積極的なことはわからないが。なお、括弧内はメモの部分である。

平日も休日も、上り下りともに十二分間隔で、
西武多摩川線
路線は多摩川の砂利を運んでいた百年前のままの単線で、
多磨駅のホームでは若い駅員が一人、
駅員は名を小野雄太、
カンカン、カンカンという音は、
五十五秒ほど続く。三十五秒過ぎに電車の音が混じり始め、四十五秒過ぎに電車が踏切を通過して駅に入ってゆき、
小野が高校一年のとき、地元の小金井市立東中学の美術教師だった人が野川公園で殺される事件があり、小野たち教え子が参列した葬儀には捜査員も数名来ていた。そのときの一人で、小野たち卒業生が殺された先生について捜査員からあれこれ尋ねられたとき、後ろで黙って聞いていた人だが、向こうは成人して駅員となった小野には気づいていない。小野のほうも、その人の名前はもちろん、警察大学校の教官なのか、それとも警察学校のほうのそれなのかも知らない。
合田雄一郎、
東京高裁判事で、名前を加納祐介
ああ上田朱美だ、
(心の動きを細かく追う)
栂野真弓
その上田朱美は、数分前に心臓が止まった。朱美が使い古しの絵の具のチューブを一つ見せて、何年か前に武蔵野の野川公園で殺された人が持っていたものだ、その場所に落ちていたから拾った、
取調室の被疑者の話は、池袋署の刑事たちを驚かせる。
コールドケースを扱う特命捜査対策室
事件の発生は二〇〇五年
当時の事件係は誰だ? 合田? あいつは警大だったか——?
子どもでも大人でもない異形の生物が、
あのときの少女A
浅井隆夫
浅井忍 
物語は、いまから十一年と三ヶ月前の、二〇〇五年十二月二十五日日曜日へと遡る。
祖母が死んだと聞かされても、まずは雑誌のページを一枚めくるような感じでしかなく、
(霧が地を這うような、陰々とした表現)
あ、そうだ。捜査本部にいた合田っていう刑事さん、元気ですか? 何かさあ、かび臭い図書室に座っている司書って感じ。ぼくと違って、頭の中身が徹底的に整理整頓されていてさ。とにかくあのお祖母さんの機嫌が悪かった理由は、栂野真弓が知っていると思うよ。合田さんにもそう言ったはずだけど。
主な登場人物は、栂野節子、栂野雪子、栂野孝一、栂野真弓。浅井忍。上田朱美。浜田ミラ。井上リナ。それらの人物毎に、たとえば十二月二十四日の午前零時から翌二十五日の午前零時までの一時間毎の居場所を、ダイヤグラムのような表にする。これを、一日毎に作成する。列車のダイヤグラムの駅に相当するのは、栂野邸、各々の学校、各々の勤め先、吉祥寺の予備校、吉祥寺や武蔵小金井のゲームセンター、吉祥寺のカラオケ店、小金井東町の路上、白糸台ゴルフセンター、そして野川公園などだ。
すると、たとえば十二月二十四日、栂野家の四人の列車線は午前六時まではいずれも起点駅である栂野邸にある。午前六時に節子が家を出て野川公園に向かったのを皮切りに、午前八時に孝一、節子がそれぞれゴルフセンター、桜町病院へと出てゆく。
(徹頭徹尾ディテールの積み重ね)
もし、栂野真弓と上田朱美がふつうの仲良しではなかったとしたら---。
保存されているのは六百三十枚。すべて忍が撮ったものだ。
捜査責任者として事件現場周辺の不審者浅井忍の身辺を徹底的に洗わなかった失態が、十二年の月日を経てあらわになった格好だった。
(マルティン・ベック?)
そうして日々更新されてゆくSNSを適当にフォローしていると、
最近はSNSでつながってくる友人知人の全部に苛立ち、気分が重くなる。親しい者もそれほど親しくない者も、誰もが呼んでいないのに呼び鈴を押し、尋ねてもいないのに話しかけてくる。
被害者の近いところにいる人間による突発的な暴力を想像した
あの直感はいまも揺らいではいないし、
ところであの終業式の日、上田朱美さんが栂野先生から手紙で呼び出されていたのを思い出しました。上田さんは事件前、先生に会いに行ったのでしょうか。
とまれ浅井忍の写真が、こうして栂野節子が事件直前に上田朱美を手紙で呼び出していたという、事件の重大なピースの発見につながったのは合田にとってまさに衝撃であった。しかし、それ以上に、この少年少女たちの日常と非日常を分けることになった事件の無慈悲さにあらためて胸が締めつけられたのは、年齢のせいだけでもなかっただろう。
 それにしても、合田とのつき合いも随分と長くなった。初めは『マークスの山』だっただろうか。もう25年にもなろう。『照柿』『レディ・ジョーカー』などと続くその全部を好んで読んできた。本書は7年ぶりとなる6作目だが、著者も合田には思い入れもあるようだし、合田の定年にはまだ3年もあるようだし、もう1作は読めるだろうか。
(毎日新聞出版刊)

映画『パリに見出されたピアニスト 』

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(写真1 映画館に掲示されていたポスターから引用)

ご自由に演奏を!

 パリ北駅。多くの利用者が行き交う雑踏に置かれた駅ピアノ。ご自由に演奏を!と表示されており、一人の青年が力強い演奏を行っている。ほとんど毎日のように弾いているようで、その様子を一人の紳士が遠くから観察している。
 青年の名はマシュー。狭いアパートに母親と三人の兄弟で住んでいる。不良仲間とつき合っているが、片時も離れないのはピアノのこと。クラシックピアノを弾いているなどというと不良仲間に馬鹿にされるし、母親にも隠していた。実は、マシューは子供の頃から近所の老人からピアノの手ほどきを受けていたのだった。老人はマシューの才能を見いだしており、自らの死の近いことを知るやマシューにピアノを贈る。「Eフラットの音は出ないぞ」と注意しながら。
 一方、紳士は、パリ国立高等音楽院(コンセルヴァトワール)ディレクターのピエール。ピエールはマシューの才能を見抜き、本格的にピアノを学ばないかと誘うが、マシューは話を本気にせず、仕事もあるから無理だと蹴っ飛ばす。
 そんな折、マシューは空き巣に入った屋敷で、グランドピアノを見つけ弾いているうちに逃げ遅れ警察に捕まってしまう。ピエールは一計を案じ、音楽院で床掃除をする公共奉仕をすることで収監を免れさせる。
 床掃除をするマシューに対しピエールはピアノのレッスンを働きかけるがマシューはなかなか頷かない。とにかくマシューは反抗心が強く、反発ばかりしている。
 それでもマシューはピアノが好きだから、結局ピエールの説得に応じ、レッスンを受けることに。指導するのは〝女伯爵〟と異名を取るエリザベス。厳しいことで知られる。しかも、いきなり国際ピアノコンクールを目指すといわれ、その課題曲がラフマニノフのピアノ協奏曲第2番と知るや、エリザベスはピエールに対し、「マシューは10度の間隔に指を広げることはできるのか」と問いただす。
 ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番は難曲中の難曲として知られ、冒頭の和音連打においては、10度の間隔で弾くことが要求されているのだが、これは一般人には不可能に近い。つまり、例えばドからオクターブ上のミまで10鍵分の手を広げるということで、ずぶの素人の私でも知っている有名なエピソードだ。
 こうして始まった三人の行脚。初めマシューは楽譜を読み取る習慣すらなかったのだが、エリザベスはマシューの才能にすぐに気づく。
 映画では、ショパン、バッハ、ブラームス、、リストなどの名曲が次々と演奏され、豊穣に酔いしれる。もちろん、ラフマニノフの第2番は繰り返し登場する。激しい第1楽章から穏やかな第2楽章などとメリハリの利いた曲だから音楽そのものを楽しむ味わいもある。特に後半ではピアノ協奏曲の最高峰の一つといわれる曲が様々なエピソードを交えながら演奏されるわけだからラフマニノフファンにとっては随分と堪能できるのではないか。
 映画の最後に「この指で未来を拓く」と字幕があった。原題のAu bout des doigts(指先でというほどの意味か)はここから来ていたのだ。
 フランス・ベルギー合作。2018年製作。監督ルドビク・バーナード。
 蛇足を一つ。パリ北駅は何度も利用したし私にとってパリでばかりかヨーロッパ中でも最も馴染み深い駅。パリのターミナルは方面別になっているのだが、北駅はロンドンと結ぶユーロスターやアムステルダムに向かうタリス特急などが発着しており、ずらり数十番線に渡った頭端式ホームは、いかにも国際駅の情感が深い。駅ピアノはこのコンコースに置かれているようだが、私はこれまで気がつかなかった。あるいはここ数年の間に置かれたものかも知れない。
 なお、貧しい生い立ちから国際ピアノコンクールを勝ち上がるというサクセスストーリーは、何やらテレビのアニメーション映画『ピアノの森』を連想させた。もっともあちらはショパンだが。

映画『レディ・マエストロ』

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(写真1 映画館で配布されていたパンフレットから引用)

女性指揮者のパイオニア描く

 女性指揮者のパイオニアとされるアントニア・ブリコの半生を描いている。
 ここのところ、女性指揮者西本智実さんが指揮する演奏会に出掛けたり、ブザンソン国際指揮者コンクールで沖澤のどかさん優勝の報道に接したりと、私自身、女性指揮者への関心が何かと高まっていて興味深く観た。
 1926年ユーヨーク。コンサートホールの案内係をしているアントニア。演奏されている曲に合わせて弁当の箸を指揮棒代わりに振っている。また、ホール中央通路の最前列に折りたたみ倚子を持ち込んで演奏を聴いている。膝には楽譜が載っているのだが、アントニアは全パートを暗譜しているのだった。
 アントニアは、貧しいオランダ移民の子。アパートの部屋に拾ってきたアップライトピアノを持ち込むなどとにかく音楽好き。指揮者になるのが夢でまっしぐらに突き進んでいく。
 コンサートホール案内係を首になったアントニアは、場末のナイトクラブでピアノ弾きの職を得て、音楽学校に通い本格的に音楽を学ぶ。しかし、そこでも教えてくれていた男のセクハラがあって飛び出して母国オランダへ渡る。
 アムステルダムからは紹介状をもらってベルリンへ。どこへ行っても女性指揮者への障害は高いのだが、ベルリンでは高名な指揮者カール・ムックの弟子になった。アントニアの生涯を音楽へかけるというひたむきさが彼を動かしたのだった。
 やっとベルリンフィルハーモニーの指揮台に立つことになったのだが、団員たちは女性指揮者を侮っていうことをきかない。ムックは「女1人対男100人だ」「指揮者は専制君主でなければならない。ここでは民主主義は必要ない」と言ってアントニアを鼓舞する。
 ベルリンフィルの演奏は大成功で、スタンディングオベーションの万雷の拍手が鳴り止まない。地元紙は「アメリカ娘 ベルリンフィルを牛耳る」との見出しを掲げた。
 欧州での成功をひっさげてニューヨークに乗り込んだアントニア。しかし、ここでもニューヨークフィルハーモニックは女性指揮者を忌避する態度。
 アントニアはついに女性だけのオーケストラを結成する。これには大統領夫人エレノア・ルーズベルトの支持が与って大きかった。
 コンサートの成功を危ぶむ興行主に対して、アントニアはコンサートを無料にしてニューヨーク市民に開放する。会場(おそらくカーネギーホール)は押しかけた市民で溢れたのだった。
  女性の指揮者などまったく考えられなかった大恐慌の時代。数々の障害を乗り越えながら初めての女性指揮者となったアントニア・ブリコの半生を描いたのだが、二人の男性との出会いが大きな意味を持った。一人は上流階級の子息フランクで、今一人はナイトクラブ支配人ロビン。この二人が影ながらアントニアを支援してくれた。また、この二人はそれぞれに映画の中で重要なモチーフを提供していた。
 ただ、挿入されるエピソードが多すぎて、それはそれで映画を面白くしてはいたのだろうが、私には少し忙しすぎた。
 それよりも、指揮者となる才能とは何か、指揮者の仕事とは何かというあたりにももう一つつっこみが欲しかったように思われた。
 また、同じような意味で、劇中、数々の名曲が挿入されたのだが、いずれもさわりだけで、美しい音楽を楽しむような余裕がなかったのは残念だった。ただ、ラストシーンで演奏されたエルガーの「愛の挨拶」はあまりにも美しくて万感迫る思いだった。
 なお、最後の字幕には、「グラモフォン調べ2017年の世界の指揮者トップ50に女性は一人も入っていない」と出ていた。
 アントニア・グレコが開拓した女性指揮者の地位だったが、依然として厳しい状況が続いていると言うことだろうが、少なくとも日本では、ブザンソンで1982年に女性で初めて優勝した松尾葉子さんのほか後進も育っており、女性指揮者といって特異性が強調される必要もなくなってきているのではないか。ちなみにブザンソンは小澤征爾さんが1959年に日本人として初めて優勝したことでも知られる。
 2018年オランダ映画。使用言語は場面ごとに切り替わっていて英語のほかオランダ語、ドイツ語が出てきた困った。英題はコンダクター(conductor)。監督マリア・ペーテルス 

ウィリアム・トーブマン『ゴルバチョフ』

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その人生と時代(上・下)

 ソ連の最高指導者だったミハイル・ゴルバチョフの評伝である。ただし、ソ連という政体においては最後の書記長であり大統領であった。1922年生まれ、現在も生存中と伝えられている。私としてはペレストロイカを推進した人物として記憶にあるが、果たしてどういう人生だったのか。
 著者ウイリアム・トープマンは、アメリカの政治学者・歴史学者で、ロシア・ソ連政治外交史が専門。著書にはピュリッツァー賞を受賞したニキータ・フルシチョフの評伝がある。
 冒頭に、本書を執筆中だった著者トープマンに対し、当のゴルバチョフが進み具合を尋ね、難航していると答えると、「当然だろう。ゴルバチョフは謎だ」と語ったというエピソードが紹介されているが、ゴルバチョフに関する最大の謎は、なぜ、自ら権力を手放したのかという一点だ。
 1985年に書記長に就任したゴルバチョフは、スターリンやブレジネフらがそうだったようにすべての権力を握っていた。ソヴィエト連邦共産党書記長の権力がどれほどのものかは、我々でも窺い知っているほどだ。
 そのゴルバチョフの就任当時、ソヴィエトは経済危機にあり、その打開のためにペレストロイカに着手した。ただし、ゴルバチョフが念頭に置いていたのはあくまでも社会主義体制下での民主化だったのだが、大きな改革のうねりは彼の構想の枠内にとどまることはなかったようだ。そして大統領制を敷いたものの、1991年ついにソヴィエトは崩壊してしまった。
 また、ゴルバチョフの権力基盤は盤石なものではなくて、政治局内においても微妙なバランスの上に乗っていたようだ。急激な改革は保守派の反発を招くこととなり、エリツィンのクーデターによって失脚してしまった。
 そもそも、ゴルバチョフが書記長に就任した当時、「彼を脅かすような脅威が直接迫るようなものではなかった」のに自由選挙を実施し、ペレストロイカを加速させてしまったという。
 ゴルバチョフは人生で西側に学んだ経験はなかったが、西側流の改革を進めたわけで、「西側では概ね、20世紀後半で最高の国家指導者」と評価されているのに対し、「ロシアにおいて、ソヴィエト連邦を崩壊させ、その後の経済危機を招いた張本人と蔑まれている」といい、〝ソヴィエト体制の墓堀り人〟とまでこき下ろされているという。
 それにしても、体制の崩壊というのは何とあっけないことよと思う。蟻の一穴からでも崩れるのだ・
 本書は単行本2段組、上下2冊、総ページ数892ページの大部。読み通すのに苦労するほどだが、しかし、トープマンの文章はなぜになぜにと続くから拾いながら読むには適当で、しかも、松島芳彦の訳は読みやすく、滑らかだった。政治家の評伝などおよそ面白いものは少ないが、本書はなかなか魅力的だった。
(白水社刊)

池澤夏樹『科学する心』

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文学的科学エッセイ

 大学で理系に身を置いたこともある著者によるこれは科学を話題に据えたエッセイ集。とにかく著者の該博な知識には驚嘆するばかりだが、そこは一流の文学者によるものだから、一つひとつのテーマはとても難しいものばかりなものの、理系にほど遠いものにも最後まで読み通させる面白さがあった。
 12章から構成されていて、各章のタイトルは、ウミウシの失敗、日時計と冪とプランク時代、無限と永遠、進化と絶滅と愛惜、原子力、あるいは事象の一回性、体験の物理、日常の科学などと並んでいる。
  要約が難しいが一つ引いてみよう。
 生命に関わる元素の数はそんなに多くはない。人体を構成するのは十一種の主要元素、その他に健康を維持するためには十五種の微量元素が要ると言われるが、つまりそれだけで足りるのだ。すべての生物で考えてもせいぜい四十種類。
 これで無生物ととは決定的に異なる存在が誕生し、生存し、生殖し、進化してきた。元素という単純きわまるものからかくも複雑で自律的なものが生み出される。普通ならばそこに更に上位の意思の介入を想定したくなる。その安直な誘惑に背を向けるのが科学である。(中略)
 こういう例によってぼくはホモ・サピエンスの優位という神話を壊したいと思っている。ここでまた、自分たちも種の一つであるがゆえに偏見から逃れられないという問題に立ち返る。進化は進歩ではないと識者が何度となく警告しても一般の人々は「進化したケータイ」という広告を信じる。進化は常に環境とセットであって、突然変異の結果が環境の中で有利ならばその種は栄え、そうでなければ滅びる。まあ、ケータイもガラパゴス化して滅びたりするから、市場という環境かを遠くから見るならばそこで起こっている現象の全体は進化なのかもしれないが。(以上第四章進化と絶滅と愛惜から)
 引きたい言葉はたくさんある。
 放射性物質の扱いは人間の手に負えないと言うことだ。…化学反応と核反応、つまり原子同士の反応と素粒子間の反応はまるで違う。
 パスカルのあの言葉は日本語では別の役が可能だ——人間は一本の葦に過ぎないが、しかしそれは思う葦である。「考える」ことはAIにもできるが、「思う」ことは今のところ人間にしかできない。
 それにしても、著者の圧倒的読書量には驚かされる。本文中で引用したり紹介されたりしている本の何と広範なことか。書評家としての著者の一流ぶりは、我が国の書評文学を確立した丸谷才一が推したほどだが、この広範さには丸谷もかねて感嘆していたのではないか。
 最後に一つ。常に冷静な著者がちょっと感情的になったのではないか思うところがあった。次に引いてみる。
 世間ではバカな蕎麦屋が氷水で冷やしたざる蕎麦を出してくる。冷たすぎて風味も何もあったものではない。
 前後を省いたので趣意が違って受け止められかねないが、蕎麦好きの私としても大賛成なのである。
(集英社インターナショナル刊)

第1等灯台の室戸岬紀行

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特集 私の好きな岬と灯台10選

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(写真1 室戸岬灯台全景)

測候所とお寺と灯台

 室戸岬を初めて訪れたのは1988年(昭和63年)10月16日だった。もう30年以上も前になるが、この時は徳島から牟岐線で海部に行き、海部からはバスで甲浦経由室戸岬へと向かった。この時代、海部から更に南へ甲浦へと伸びる阿佐海岸鉄道はまだ開業していなかった。
 甲浦岸壁という停留所から乗った高知県交通のバスは、始発からたった一人の乗客を乗せて室戸岬まで運んでくれた。何しろ途中の乗降がまったくなかったから、運転士がどこまで行くのかと尋ねるので、室戸岬のホテルまでと答えると、何とバスはホテルの玄関に横付けしてくれたのだった。甲浦から約1時間、海部からなら約2時間の道のりで、午後6時半を過ぎてすでに日は落ちていたからこれはありがたかった。大変気のいい運転士さんだった。この時代、私の岬巡りは、灯台の近いところに泊まるようにしていた。
 二度目に室戸岬を訪ねたのは1996年6月15日だった。この時は初めてのときとは逆コースをたどり高知からバスで室戸岬へ向かった。高知から室戸岬まで高知県交通のバスで約2時間30分。バスの沿道には工事途中で放り出された鉄道の高架が途切れ途切れに続いていた。この時代、土佐くろしお鉄道ごめんなはり線はまだ開業していなかった。

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(写真  2 阿佐海岸鉄道甲浦駅)

 ただ、阿佐海岸鉄道は1993年にすでに開業していて、室戸岬を踏破した帰途は、甲浦から阿佐海岸鉄道に乗った。私の岬巡りは、鉄道に乗ることも楽しみで、だからこうして、始終点を含めてもたった3駅8.5キロの小さな路線もはるばる乗りに来ていたのだった。
 ここで室戸岬の位置を確認しておこう。四国の地図を頭に思い浮かべると、四国はまるで猪のようにも思われる。瀬戸内海側には東西に二つの瘤がついていて、西の瘤のあたりが松山で、東は高松に位置する。西端の佐田岬が鋭い牙であろう。お尻のあたりは徳島である。太平洋側には前後の足を力強く太平洋に突っ立てている。両足を広げた真ん中が高知である。室戸岬はその右側の足に位置し、紀伊水道と土佐湾を隔てるように大きく太平洋に鋭く突き出ている。
 徳島から高知を結ぶ国道55号線で、室戸岬のバス停はちょうど岬の先端にあたり、紀伊水道側と土佐湾側を二等辺三角形とする頂点に位置する。国道は海岸沿いを岬を回り込むように走っている。
 室戸岬は、安芸山地が太平洋に尽きたようになっていて、地図で見ると、鋭い矢じりが海に突き出たようにも思えるが、実際に現地に立つと、山塊が大きすぎるし、海岸は段丘にようにも見えるが、道路は波打ち際を抜けているから断崖絶壁にあるわけでもなく、岬先端の鋭さは感じにくい。

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(写真3 甲浦から室戸岬へ向かう海岸の荒々しい風景)

 さて、三度目は2013年6月28日。この時は徳島からJR牟岐線、阿佐海岸鉄道と乗り継ぎ、終点甲浦では駅前から高知東部交通のバスで向かった。
 バスは甲浦駅前9時58分定刻発車。紀伊水道を南下するようにひたすら国道55号線を海岸沿いに走る。ここいら辺まで来ると紀伊水道というよりも太平洋そのものといった方が似つかわしいように思うが、途中、海岸には岩礁が続き、波が砕け散っている。まさしく大海原で、見晴るかすように太平洋が広がっている。
 甲浦駅前を発車したバスは乗客が5人。このうち2人はすぐに下車してしまい、バスは安芸行きだったのだが残った3人はいずれも室戸岬で降りた。一人は徳島からずうっと一緒だった軽装の中年男性で、もう一人は遍路姿の中年男性だった。
 バスは、発車してまもなく地元の人が下車してからはまったく乗降する者がなく、ノンストップで室戸岬10時48分着。これも定刻の到着だった。甲浦駅から約50分。40キロほどの道のりか。
 この日は早朝に徳島を出てからずうっと雨で、この分では岬めぐりもつらいなと覚悟していたのだったが、岬のバス停に降り立ったら雨はやんでいた。ここでも晴れ男の面目躍如といったところだろう。
 岬には、下から順に室戸岬灯台、最御崎寺、室戸岬測候所とあるのだが、私はまず最も高いところにある室戸岬測候所を目指した。ただ、ここからは歩けば1時間ほどのきつい登りが続く。それでかつては、停留所の前には小さな売店があり、80歳くらいのおばあさんが店番をしており、タクシーを呼んでもらったのだった。2度目の時もそうしてもらったのだが、おばあさんはお元気だったからとてもうれしい気持ちになったことを鮮明に記憶している。初めて訪ねた折りのこと、測候所までの道のりを尋ねると、きつい登り坂を1時間ほどもかかるし歩いて行くのは辛いとということだった。
 そして3度目。同じようにバスを降り立ったら、あるかと期待していた売店はすでになくなっていて、おばあさんもいなかった。考えてみれば、2度目に来てからでは17年も経っているのであり、おばあさんはお元気なら100歳にもなっているはず、うっかりしていた。
 それで、売店のあたりには室戸ジオパークインフォメーションセンター という看板が掛かった事務所となっており、ここで前2回と同じようにタクシーを呼んでもらった。お遍路姿の男性はあくまでも歩いて登るということだった。

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(写真4 室戸岬測候所)

 室戸岬測候所(現在の正式名称は気象庁室戸岬特別地域気象観測所)は、室戸岬の標高 185メートルにある。タクシーを乗り付けると、測候所は無人化されて閉鎖されていた。しかし、幸い、この日は気象庁の職員が設備点検のためとかで駐在していた。
 そこで、無理をお願いして測候所の屋上に登らせてもらった。実は、私はこの測候所を訪ねるのはこれが3回目で、室戸岬から太平洋を眺望するにはこの屋上からが最上の眺めと知っていたのである。かつて測候所には常勤の職員がいて一般人の見学も歓迎されていた。
 この日は生憎と雨上がりの曇り空でくっきりとした眺望ではないものの、ぐるり遮るものとてない360度の展望が開けていた。
 この室戸岬は台風銀座みたいなところで強風で知られるが、子どものころ、まだテレビがなかった時代、気象情報はラジオで聞いていた。その放送の中では必ず室戸岬が登場し「室戸岬では西寄りの風風力3」などとやっていた記憶があり、室戸岬測候所というものへの愛着がいまだ強いのである。また、室戸台風にも数次にわたって襲われており、確か、日本の最大風速はここで観測されたものではなかったか。

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(写真5 古刹然としたたたずまいの最御崎寺)

 測候所からは坂道を下っていくとほどなく最御崎寺(ほつみさきじ)。四国24番札所である。なかなか立派なお寺で、古刹然としたたたずまいが感じられた。数人のお遍路さんがお参りしていて、私のような単なる旅行者というものはほかにいなかった。
 お遍路さんの中に、来る途中バスで一緒だった方がいらして少しだけお話をした。春に20ヵ寺ばかりは片付けていて、今回は2週間の予定で残りをすべて巡るのだということだった。50前後のがっしりした体格で、とくに屈託があるようには思われなかった。
 さて、このお寺のすぐ下が室戸岬灯台であった。鉄造の灯台で、白く塗装されている。太くずんぐりした円筒形をしていて、はなはだたくましく感じられた。光達距離の26.5海里(約49キロ)は日本一である。なお、鉄造の灯台は珍しく、日本最北端宗谷岬は角形の鉄造だった。

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(写真6 室戸岬灯台の第一等フレネルレンズ)

 レンズがでかい。第一等フレネル式で、直径が2.6メートルもある。なお、現存する第一等レンズの灯台はほかに犬吠埼、経ヶ岬、出雲日御碕、角島の四つ。
 灯台は海面から約150メートル。灯台からは両手を広げて余るほど約240度もの眺望で、ひたすら太平洋が大きく見えた。ただ、この岬は大きすぎて、木が生い茂っているし、断崖絶壁の様子も感じられなかった。

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(写真7 海岸から見上げた室戸岬とてっぺんにちょっと顔を出しているのが灯台)

 麓に降りると、海岸沿いは荒々しい岩礁になっていて、遊歩道が設けられている。波打ち際まで渡っていって後ろを振り向くと、さっき下ってきた灯台のてっぺんが見えた。

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(写真8 室戸ジオパークと背後の銅像は中岡慎太郎像)

 また、国道沿いには幕末の志士中岡慎太郎の像があって、その隣には室戸ジオパークインフォメーションセンターがあり、見学させてもらった。それによると、この岬は海底火山が隆起してできたのだとのこと。一般に、砂浜は沈下してできることが多く、岬は隆起したものと言えるようだった。
 ところで、このジオパークでお話を伺っていたら、うっかりしてタッチの差で帰りのバスを逃してしまった。この先は土佐くろしお鉄道の始発駅奈半利まで向かう予定。しかし、次のバスは2時間後までないし、奈半利駅まではバスで約1時間の道のり。それで頭を抱えていたら、インフォメーションセンターの女性が、先行するバスを自家用車で追いかけてくれるという。大変恐縮だったのだが、お言葉に甘えてそのようにさせてもらった。ただただ感謝するばかりだったが、とても思い出深い室戸岬紀行となったのだった。

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(写真9 土佐くろしお鉄道奈半利駅)

<室戸岬灯台メモ>(「灯台表」等から引用)
 航路標識番号3027(国際番号M5586)
 名称/室戸岬灯台
 所在地/高知県室戸市室戸岬町
 位置/北緯33度14分50秒 東経134度10分32秒
 塗色・構造/白色塔形鉄造
 塔高/15.4メートル
 灯火標高/154.7メートル
 レンズ/第1等フレネル式
 灯質/単閃白光毎10秒に1閃光
 実効光度/160万カンデラ
 光達距離/26.5海里(約49キロ)
 明弧/全度
 初点灯/1899年4月1日
 管理事務所/第五管区海上保安本部高知海上保安部
  なお、室戸岬灯台は、日本の灯台50選の一つであり、Aランクの保存灯台に指定されている。