ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

ホーカン・ネッセル『悪意』

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スウェーデンミステリー

 このところ元気なスウェーデンミステリー。次々と新しい作品が紹介されて楽しませてくれている。特に現地在住の翻訳家の活躍が光る。英語版からの重訳ではなく原書からの訳出だから細かな味わいが出ているように思う。マイ・シューバル/ペール・ヴァールーによるマルティン・ベックシリーズを新訳した柳沢由実子、そして本書は、レイフ・GW・ペーション『許されざる者』を訳した久山葉子。
 またまた新しい作家を見いだしたわけだが、訳者あとがきによれば、ホーガン作品の日本紹介は16年ぶりだったとのことで、しかし、ホーガンはガラスの鍵賞も受賞している実力者だとのこと。わたしは初めて手に取った。
 本書は、単行本2段組400ページ超。ほぼ2冊分のボリュームで、5本の短篇、というよりも、5本の長さはまちまちで、長さだけで見当をつけるなら3本の短篇に1本の中編、1本の掌編と区分することもできる構成。
 いずれもじっくりと読み進むに味わいのある物語ばかりで、探偵が謎を解き明かすわけでも、刑事が難事件を解決するわけでもなないが、高尚で緻密な謎解きだ。そして不気味。
 読者をぐいっと惹きつけるプロローグ、そしてあっと驚かされる大逆転のエピローグ。読者としては大いなる皮肉と受け止める向きも多いに違いない。
 冒頭の短篇「トム」では、22年前に死んだはずの息子トムと名乗る男から電話がかかってくる。死体こそ見つからなかったものの、懸命の捜査にも行方がわからなかったのだ。今頃になって誰が何の目的でかけてきた電話か。なお、呼び出しに指定された場所はイントリーゴというカフェ。実は、このイントリーゴというのは本書の原題で、訳せば悪意とか陰謀という意味があるそうだ。正体のわからない不気味さが募るが、オチも二段階になっているから要注意だ。
 言葉遣いもユニークで、例えば、「ユーディットはマリア・ローセンベルグが同情しているのか、軽い皮肉を言ったのか、判断がつかなかった。それともそれを両方同時にやる能力を持ち合わせているのか。そんな合金のような存在なのだとしたら、彼女の叡智が膨らみ続けることにも説明がつく」とあって、合金のようなという表現もわかるようでわからない。
 2編目は中篇と読んでいい長さの「レイン ある作家の死」。ベートーベンのバイオリン協奏曲のコンサートをラジオで聴いていたら、曲が終わろうとするひときわ静かな箇所で咳が聞こえてきた。聞き間違いの可能性もあるし勘違いをしただけかもしれないが、「あれは絶対に彼女だった。エヴァの咳だった。半年前の録音の際に、失踪した妻が客席のどこかに座っていたのだ。そしてわずかな咳のかゆみを我慢できなかったせいで、わたしは三年ぶりに、彼女が生きている証を得たのだ。」
 突拍子もないほどの大変珍しいエピソード。コンサートはAのコンサートホールで行われたのだが、それで、わたしはAに向かいたいと思っていた。
 実は、Aへと旅する理由はもうひとつあって、人気作家のレインが自死したこと、レインは初めに母国語以外で出版することを命じた言葉を遺していて、遺稿を受け取った編集者は、わたしに対しAに滞在して翻訳するよう要請したのだった。
 それにしても、この二つの物語はどのように進むのか、絡むのか絡まないのか、辛い結末が待っていた。
 ほかにも凝ったつくりの物語が多くて、秋の夜長、煎った豆を一粒一粒口かみ砕いていくような、じっくりと読んでいくと味わいが増すようだ。
(東京創元社刊)

戸田泰生画『再生』

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(写真1 自身の作品とともに戸田泰生さん)

第49回純展出品

 戸田泰生画『再生』は、上野公園の東京都美術館で開催されていた公募展純展に出品されていた。
 純展は毎年秋に開催されていて、関東地方からの出品が大半で、今回は238人290点に上る作品が出品され、ほかにトルコなど海外からも50点を超す作品が出品されていた。
 戸田さんの作品は、会場入口近いところに展示してあって、この展示室は実力者の作品が集まっていたが、100号の大作であり、会場に入ってすぐに目立った。
 大きな木が不気味な枝を伸ばしている。背景の山は赤く燃えている。碧い湖が静けさを際立たせている。異次元の世界のようでもあるが、画面右上の山裾に工業のプラントも見える。
  終末のようでもあるが、絵が若若しいし不思議な生命力も感じられる。こじつければ様々な受け取り方ができそうだが、難しい味わいがある。
 戸田さんとはかねて昵懇の間柄。同じ業界にいて駆け出しの頃から可愛がってもらってきた。
 戸田さんは83歳。高校大学時代から絵は好きだったようだが、会社勤めをしていた時代は絵筆を握ることはなかったが、70歳で社長を退任してから本格的に取り組み初め、それも美大を目指す若い学生が通う教室で基礎から学んだという。
 私はこの10数年来戸田さんの絵を見てきているのだが、戸田さんの特徴はモチーフが多彩で次々と変化のあること。
 10年くらい前になるか、当時は沖縄の闘牛の模様を好んで描いていた。とにかく迫力のある表現でディテールがしっかりしていたし、優れて臨場感のある作品だった。これで、画家としての評価を確立したのではなかったか。
 それで、しばらく闘牛を追求していたのだがある年からふっとこのモチーフが消えた。その後、里山の風景などを描いていたが、4年ほどになるか、都会の街路を大胆な構図で描いてきて、しゃれた画風はストーリー性に時間の動きまでも感じさせる秀逸な作品世界を完成させていた。この作品で純展の最高賞を受賞し、名だたる地位を確立させていた。
 それが、今年の春の公募展旺玄展あたりからまたまたモチーフを転換させ、生命の不思議と取り組む作品世界へと変わってきた。
 その一連の展開がこのたびの『再生』で、この絵の中で、碧い湖があって我々は再生できる可能性を知ることができた。ただ、戸田さん特有の遊びがなくなってきたように思える。
 とにかく戸田さんの絵は見るたびに変化が大きくて、それは大きな楽しみでもあるのだが、戸田さんの創造力に感銘を与えられるとともに、常に100号近い大作に取り組んでいるエネルギーにも感服する。

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(写真2 戸田泰生画『再生』

小樽の日和山灯台

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(写真1 高島岬に立つ日和山灯台)

北海道で二番目に古い灯台

 日和山灯台は、小樽の郊外祝津にあり、小樽駅からバスで10分ほど。終点おたる水族館から坂道を登ること約10分。石狩湾にでべそのように突き出た小さな岬高島岬の先端にあって小樽港に出入りする船舶を誘っている。

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(写真2 麓から見上げた日和山灯台と鰊御殿)

 麓は住宅地で、水族館から坂を登っていくと、坂の途中に、かつての鰊御殿だという立派な建物があって、灯台はさらにそこから急な坂を登り詰めたところにある。

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(写真3 後ろ側から見上げた灯台)

 灯台は、赤と白の縞模様になっていて、しかも、灯塔ばかりか付属舎も同じように塗られているから、遠目には灯台とは思えず、観光用の展望台のように見えなくもない。近づいても円形の大きな缶を立てたようにも見えるし、赤い塗色が剥がれかかって傷んでいる。小樽駅の観光案内所によれば、近々、塗装工事が行われるらしい。
 灯台は、塀がぐるりと回され、門扉は錠がかかっていて近づくことはおろか敷地に入ることもできない。全国の灯台にはこのように固く閉ざされたところが少なくないが、なぜだろうか。灯台はがっしりした建造物だし、容易に破壊されるものとも思えないから、灯塔の内部はともかく近寄ることぐらいはさせて欲しいものだ。灯台は今や観光資源としても注目されているところだし、一考して欲しいものだ。
 地図で見ると、高島岬は、積丹半島の東側の付け根に位置し、日和山灯台は石狩湾を挟んで石狩川の河口にある石狩灯台と対置しているように受け止められる。二つの灯台は、小樽港のほか、石狩湾新港にも対応しているものであろう。
 岬の先端は高い崖になっている。高さ40メートルほど。眼前は石狩湾。時折船が横切るが、概して船舶交通量は多くはない。このあたりは北海道の灯台のことで、ひっきりなしに船舶が航行する東京湾や瀬戸内海に比べれば静かな海だ。
 目を右に向ければ、眼下に小樽港が見える。もとより小樽港は北海道開拓の拠点となってきたところ。日和山灯台が、1883年の初点と、納沙布岬灯台に次いで北海道で二番目に古い灯台というのも頷けるところ。かつては鉄道と結びついて石炭輸送の重要な役割を担ってきたところだが、現在はクルーズ船が頻繁に寄港していて観光港としての位置づけを強めているように思えるがどうであろうか。

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(写真4 麓の住宅地から遠望した日和山灯台)

<日和山灯台メモ>(灯台表及び海上保安庁/燈光会等が設置した看板等から引用。なお、灯台表と看板の表記が異なる場合は灯台表を優先し、必要に応じ看板表記を括弧内に補記した)
 航路標識番号(国際番号)/0580(M6996)
 位置/北緯43度14分3秒(43 14.18N)  東経141度00分9秒(141 00.56E)
 所在地/北海道小樽市祝津
 塗色/白地に赤横帯2本
 構造/塔形コンクリート造
 灯質/単閃白光 毎8秒に1閃光(群閃白光毎20秒に2閃光)
 実効光度/11万カンデラ
 光達距離/19海里(約35キロ)
 明弧/108度~347度
 塔高/10メートル
 灯火標高/50メートル
 初点灯/1883年(明治16年)10月15日(当初は木造六角形で、1953年に現在のコンクリート造に建て替えられた)
 管轄/第一管区海上保安本部小樽海上保安部
 なお、ウィキペディアによれば、レンズは40センチ回転灯器だとのこと。また、小樽観光協会の案内によると、光源は70ワットメタルハライド電球だとのこと。

小樽市総合博物館の車掌車・緩急車

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(写真1 車掌車ヨ7904)

シリーズ車掌車を訪ねて

 小樽市総合博物館は、小樽駅からバスで5分ほど。手宮にあり、ここは北海道における鉄道の原点。旧手宮鉄道施設のあったところで、国の重要文化財に指定されている煉瓦造の機関車庫などが残されている。
  なかなか広大な施設で、多数の鉄道車両が展示されている。総合博物館というが、内容的には鉄道博物館ではないか。

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(写真2 国の重要文化財である煉瓦造の機関車庫や転車台。ラッセル車も見える)

 屋外展示場に出たすぐ右手には、機関車庫のほか転車台といった重要文化財が展示されている。ここにはキ270やキ1567といったラッセル車の姿も見え、いかにも北海道の鉄博らしい。

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(写真3 北海道鐵道開通起點のモニュメント)

  敷地の中央には、「北海道鐵道開通起點」という準鉄道記念物のモニュメントがあった。そこには1880年(明治13年)、北海道で最初の鉄道がここから始まったと記されてあった。
 キハ56形急行車両などとかつて北海道で活躍した車両が数多く展示されていた。また、この日は、北海道最古の動態保存蒸気機関車に引かれた列車が構内運転されていて、夏休み中の多くの子どもたちが歓声を上げていた。

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(写真4 貨物列車に連結されて緩急車ワフ29984)

 ホキ、トラ、セキ、ワムなどとDEに牽引される形で展示されていた貨物列車の編成の最後尾に緩急車ワフ29984が連結されていた。緩急車は一部が貨物室になった車掌が乗務する事業用貨車。車掌車同様ブレーキが取り付けられているのが大原則。車内はやはり車掌車に比べやや狭い。
 車掌車は1両だけの展示で、ヨ6000形のヨ7904がやはり貨車と連結されて展示されていた。説明板によると、1968年(昭和43年)東急車輌製造/協三工業の製造。自重8.8トン。なお、この説明板には日本語のほか英語とロシア語の表記も含まれてあった。釧路や稚内ではロシア語表記の店を時折見かけるが、小樽でもロシア人の来場者は多いのであろうか。
 帰途、館外で飲食施設として使用されている車両があって、そのうちの1両はよく見ると緩急車だ。車体は再塗装されていて車番などは消されていたが、足回りをのぞき見ると、ワフ29688と読めた。

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(写真5 小樽市総合博物館の本館建物)

女満別駅の車掌車4両

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(写真1 女満別駅構内に留置されている車掌車4両)

シリーズ車掌車を訪ねて

 石北本線を特急列車で網走に向けて走っていたところ、女満別駅到着の直前ピンク色の車掌車が右窓に見えた。途中下車しようと思ったのだが、先を急ぐ必要があったのでいったん網走まで行き、後ほどとって返してきた。

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(写真2 右が車掌車。左は2番線に停車中の網走行き下り列車)

 女満別駅は相対する2面2線のホーム。車掌車は、1番線上りホームの背中側に留置されていた。
 4両あって、いずれもピンク色に塗色されていた。ただ、丈の高い草が生い茂り、塗装も剥がれかかっていて、見学できるような状態ではなかった。車両番号などの情報も塗りつぶされていて定かではない。どちらが先頭ということもないのであろうが、駅舎側からヨ8000形1両、次ぎにヨ3500形が3両続いている。車両番号は消されているが、車両銘板には昭和29年新潟鐵工所、昭和48年日本車輌製造などと読み取れた。
 笹田昌宏著『車掌車』によれば、車両番号はヨ8000形がヨ8018、ヨ3500形はヨ4424、ヨ4459、ヨ4460であるらしい。また、同書によれば、これら車両はかつてはホテルとして使用されていたものだということ。
 ホテルとして利用されていた時代の名残であろうか、ドアの窓ガラスに、ブタ、キツネ、タヌキ、イヌの絵が施されていた。
 まあ、ホテルとしての役目は終えたものであろうが、ホームと並んで留置しているのであれば、人目に付くものでもあるし、鉄道事業者としてはもう少し手入れを施して欲しいものだ。なお、この駅は、特急停車駅ではあるが、無人駅である。

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(写真3 女満別駅)

能取岬と能取岬灯台

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(写真1 草原が広がる能取岬と能取岬灯台)

台状の草原に立つ八角形の灯台

 能取岬は、網走の郊外、オホーツク海に鋭く突き出た岬。突端に能取岬灯台がある。
 岬には、網走駅からタクシーで約20分。駅前の坂道を直角に登ったから初め見当がつかなくて面食らったが、網走川を渡ってほどなく海岸に出て左折しそのまま北上した。頭に描いていた地図とは違ったが、タクシーが間違えるはずもなく最短を選んで美岬ラインと呼ばれる能取半島をたどる鬱蒼とした道道を途中で右折すると視界が開けて能取岬に出た。
 明るい岬だ。気持ちがいい。8月5日。真夏の青い空の下に草いきれがする。美しい草原が広々と開けている。周辺一帯は網走市営美岬牧場というらしい。
 草原の先の少し小高くなったところに黒と白の縞模様。能取岬灯台である。近づいて見ると八角形のがっしりとした灯塔。鉛筆に似ていなくもない。面白い形だ。黒模様は雪国にままある塗色。真っ白では灯台の存在が雪景色の中に薄まってしまう。
 なお、現地にあった灯台の概要を解説する看板によると、この構造は日本で最初の洋式灯台である観音埼灯台などの建設に関わったフランス人技師エオンス・ヴェルニーの様式を継承したものだとのこと。なるほど、観音埼灯台も八角形だった。もっともあちらは白く背が高くスマートだが。
 灯台に近づくまでは気がつかなかったが、灯台は崖っぷちに立っている。30メートルほどか、結構な高さがある。おそらく海岸段丘ではないか。実は、オホーツク海沿岸で海岸段丘は珍しい。そもそもオホーツク海沿岸に灯台自体が少なくて、能取岬灯台から最北端宗谷岬灯台までの約250キロの間に防波堤灯台は別としていわゆる沿岸灯台は紋別灯台、北見神威岬灯台の二つしかない。
 後背地に目をやると、なだらかな丘陵になっている。ここで鋭く落ちたものであろう。とても見晴らしがよく、眼前はどこまでも遮るもののないオホーツク海である。航行する船舶が見当たらないというのもオホーツクらしいか。夕方だったからかもしれない。波は意外にも静かだ。

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(写真2 灯台が立つ岬の先端はマッコウクジラの頭のよう)

 脇に回って眺めると、灯台があるあたりはマッコウクジラの頭のような形をしている。鋭く突き出た岬の先端である。岬の形状といい、灯台の特徴ある姿といい、とても印象深く美しい灯台だ。台状の草原やマッコウクジラのような先端ということでは、岬全体の印象が日本最西端の岬与那国島の西崎に似ている。
 私はこの岬は二度目だが、流氷が押し寄せる季節ならばまたまったく別の素晴らしさがあるのだろうと思われた。なお、この灯台は、流氷の季節には点灯しないようだ。沿岸を航海する船舶がなくて必要がないということなのだろう。

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(写真3 黒白黒白の縞模様と八角形が面白い灯塔。高さは21メートル)

<能取岬灯台メモ>(灯台表及び海上保安庁・燈光会が設置した看板等から引用)
 航路標識番号(国際番号)/0407(M6882)
 位置/北緯44度06分44秒 東経144度14分35秒
 所在地/北海道網走市美岬
 塗色/白地に黒横帯2本
 構造/塔形(八角形)コンクリート造
 灯質/単閃白光 毎8秒に1閃光
 実効光度/11万カンデラ
 光達距離/19.5海里(約36キロ)
 明弧/97度~335度
 塔高/21メートル
 灯火標高/57メートル
 初点灯/1917年(大正6年)10月1日
 管轄/第一管区海上保安本部紋別海上保安部
 なお、ウィキペディア等によれば、光源はLB-M30型灯器だとのこと。

名寄市北国博物館のキマロキ編成

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(写真1 キマロキ編成の雄姿)

伝説の雄姿

 キマロキ編成とは、蒸気機関車による4両編成の排雪列車のこと。4両の頭文字を取って名づけられており、初めのキは機関車、マはマックレー車、ロはロータリー車、そして最後のキも機関車。
 通常の除雪にはラッセル車が使用されるが、線路脇の雪壁が高くなると、ラッセル車では除雪が困難となる場合があって、豪雪地帯では排雪列車が出動した。
 まず、先頭の機関車がマックレー車を牽引。マックレー車は雪壁を崩し両側の雪をかき集める役目。次ぎに、集めた雪をロータリー車が回転する羽根で遠くへ飛ばし、そのロータリー車を機関車が後押しするという仕組み。
 北海道のほか東北や北陸の豪雪地帯にも投入されたらしいが、完全な編成で現存するのはこの名寄市北国博物館に保存されているもののみ。鉄道の歴史を知る上で極めて貴重な展示で、準鉄道記念物に指定されている。
 名寄市北国博物館は、JR宗谷本線名寄駅からタクシーで5分弱。宗谷本線沿いに屋外展示されていた。
 展示されている編成は、先頭から順に、SL59601号機(9600型蒸気機関車=大正10年11月3日川崎造船所製造)、マックレー車キ911号機(かき寄せ式雪かき車=昭和13年10月20日国鉄苗穂工場製造)、ロータリー車キ604号機(回転式雪かき車=昭和14年11月20日国鉄苗穂工場製造)、SL D51398号機(D51型蒸気機関車=昭和15年1月24日日本車輌製作所製造)とあり、最後尾には車掌車ヨ4456号車(ヨ3500形=昭和29年川崎車輌製造)も連結されて紹介されていた。車両編成の全長は約75メートル。
 名寄駅は、宗谷本線のほか、かつては名寄本線、深名線が集まる鉄道の要衝だったところで、展示車両は旧名寄本線の線路上だということ。すぐそばを宗谷本線が走っていた。
 現地を訪ねると、キマロキ編成が圧倒的迫力で展示されている。これがあの〝キマロキ編成〟かと感動する。保存状態はとてもよくて、今にも動き出しそうに各車両が黒光りしている。各車両とも実際に乗って見学することもできるようになっていて素晴らしい。
 パチパチと写真を撮っていたら、そばにいた80年配の男性が、わざわざ見に来たのかいと尋ねるからそうだと答えると、全国でもここにしかないんだよと自慢げだった。実際、名寄の宝だろう。


編成の各車両は先頭から順に次の通り。
蒸気機関車59601号機

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マックレー車キ911号機

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ロータリー車キ604号機(自力推進はできないがタンク車を従えている)

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蒸気機関車D51398号機

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車掌車ヨ4456号車

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