ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

仙台市地下鉄

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(写真1 広瀬川橋梁を渡る東西線電車)

南北線と東西線

 三陸からの帰途、仙台で途中下車し、仙台市地下鉄に乗った。
 二つの路線があり、その名の通り南北に貫く南北線と、東西に走る東西線。二つの路線はJR仙台駅に直結する仙台で直角に交差している。路線総延長は28.7キロ。福岡や京都、神戸各都市地下鉄路線とほぼ同じ距離。
 初めに開業したのは南北線。当初、八乙女-冨沢間が1987年に開業し、その後八乙女から泉中央まで一駅延伸されて1992年全面開通した。14.8キロ、駅数17。
 次ぎに、しばらく間を置いて2015年東西線八木山動物園-荒井間13.9キロが一括開業した。駅数は13。
 東西線から乗った。理由は単純。JR仙台駅から地下駅に降りていくと、初めにあったのが東西線ホーム。南北線はその奥になるようだ。遅れてできた路線だけにホームが深いところにあり、長いエスカレータを下った。
 どっち方向に乗るか考えていなくて、これも初めに来た荒井行きに乗った。仙台には住んだことはないがたびたび訪れたことがあって懐かしい駅名が続く。
 連坊は、連坊小路という通りがあったのではなかったか。寺町なのであろう。仙台一高がこの通りだった。続いて薬師堂。陸奥国分寺にちなむのであろう。

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(写真2 荒井駅に停車中の東西線電車)

 そうこうして終点荒井。高架駅である。仙台から14分。高架下には役所の出張所があり、保育園も設けられてあった。駅前は開発途上のようで、バス乗り場だけが立派だった。
 すぐに折り返したが、発車待ちの乗務員とちょっとだけ話したら、この路線はリニアだとのこと。いわゆる鉄輪式というやつで、地下鉄に多いタイプ。浮上式とは異なる。都営地下鉄大江戸線などと同じ方式で、車両の小型化によってトンネル断面を小さくすることが可能で、ミニメトロである。
 実際、乗ってみると、車両の天井が低いし、幅も狭い。ただし、鉄輪式だから、一般の地下鉄車両と騒音は変わらない。
 また、全駅にホームドアが設けられており、4両編成だが、ワンマン運転である。
 再び仙台を経て大町西公園を過ぎて地上に出て広瀬川を渡った。ここから一気に国際センター、川内、青葉山と急勾配が続いた。また、青葉山と八木山動物公園間が急曲線となっている。急勾配、急曲線はリニアの利点を生かせるところでもある。
 青葉山を過ぎて一瞬トンネルが途切れたが、これは竜の口渓谷を渡る橋梁だったようだ。
 そうこうして八木山動物公園。地下駅だが、レール標高136.4メートルは日本一高い場所にある地下鉄駅である。なお、動物園はここから徒歩10数分のところにあるらしい。
 帰途、国際センターで下車してみたところ広瀬川を渡ってくる列車が眼下に一望でき、その向こうに仙台中心街が広がっていた。また、この駅からは宮城県美術館が近い。
 再び仙台。南北線に乗り換え。初めに富沢行きに乗車。途中、長町はJR東北本線との接続駅。そうこうして終点冨沢。地下駅で、地上に出てみたが、特記するようなものには気がつかなかった。
 すぐに折り返し、仙台を経て黒松で地上に出た。そのまま進み、八乙女を出て右に大きなスタジアムが見えた。サッカーベガルタ仙台のフランチャイズのようだ。
 そうこうして終点泉中央。ホームは地下にあるが、地上に出ると地下鉄の駅とは思われないほどの大きさ。駅ビルがあり、ペデストリアンデッキを囲むように多数の大型商業施設が取り囲んでいる。泉中央副都心というらしい。

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(写真3 ペデストリアンデッキを囲むように大型商業施設が並ぶ南北線泉中央駅前)

JR八戸線

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(写真1 鮫駅を過ぎると右窓丘の上に見える鮫角灯台)

三陸縦貫鉄道構成路線

 三陸鉄道リアス線を久慈から乗るためには八戸線で向かう必要がある。
 八戸線は、八戸から久慈を結ぶ全線64.9キロの路線。青森県から岩手県にまたがり三陸海岸北部に位置し、仙台から八戸に至る三陸縦貫鉄道を構成する。
 起点の八戸駅は、東北新幹線、青い森鉄道との接続駅。かつては尻内駅と呼ばれていて、現在の本八戸駅が八戸駅だった。1971年に現在の形になった。なお、八戸線は沿岸を走る路線ではあるのだが、高台の区間が多かったため甚大な被害の箇所が少なく、震災から1年後の2012年3月17日には復旧している。これはJRの在来線では最も早いものだった。ちなみに、八戸線は新幹線を除けば他の在来線との接続がまったくない孤立線であり珍しい存在。
 三陸鉄道リアス線に乗るべく八戸線に乗ったのは3月24日。リアス線開業一般営業開始初日である。だから、リアス線にも初日に乗ることは可能だったのだが、あえて初日の混雑を敬遠したのだった。
 さて、八戸15時15分発久慈行き。3両のディーゼル。東京から来た新幹線との乗り継ぎ時間はわずか10分。よすぎるくらいだ。
 八戸を出て長苗代を過ぎると馬淵川(まべちがわ)を渡った。2本の鉄橋が並んでいる。1本はもとより八戸線だが、もう1本は貨物線の八戸臨海鉄道のものであろう。
 なお、馬淵川は、岩手県に発し、八戸で太平洋に注いでいるのだが、三浦哲郎の芥川賞受賞作『忍ぶ川』に登場していて印象深い。馬淵をまぶちではなくまべちと読むということも初めてここで知った。
 続いて本八戸。高架のホーム。改札口のすぐ向かいにある小高い丘の上が、南部八戸藩の城址である。八戸は有数の漁港であることはもちろん城下町でもあったのである。近年では、新産業都市として工業化が著しく進んだ。
 鮫。左窓に八戸港が続き、ウミネコの繁殖地として知られる蕪島が見える。
 そして、この鮫の駅を出ると右窓に目をこらすことが必要。数分で丘の上に真っ白な灯台がすっくと建っているのが見えてくる。鮫角灯台である。灯台に登れば、鉄道を眼下に、眼前に太平洋の大海原が広がっているのを見ることができる。鉄道から見える灯台としては全国屈指のものではないか。車窓も、灯台も海を見ているから意外に気がつかないものなのである。

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 (写真2 左窓には白砂青松の美しい海岸線が続く)

 陸奥白浜。このあたりから美しい海岸線が延々と続く。まさしく白砂青松である。
 階上を過ぎて岩手県に入った。すると間もなく種市。ここの種市高校はちょっと変わった存在。海洋開発科は全国で唯一の潜水士養成学科なのである。〝南部潜り〟の伝統を受け継ぐもので、この科では水中溶接の実技訓練も行っている。震災で被災した港湾の修復に大いに活躍した。
 そうこうして久慈到着。16時57分。八戸から約1時間40分。JRの駅舎があり、三陸鉄道の駅舎は隣り。
 駅頭に立つと猛烈に寒い。4℃くらいらしい。凍えるようだった。

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(写真3 こちらはJR久慈駅)

定点観測地点田老へ

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(写真1 2019年3月26日震災8年目の田老)

8年目の被災地を訪ねて③

 宮古からはさらに北上を続け田老を目指した。宮古-田老間は、鉄道なら路線距離12.7キロ、約19分、自動車でも約20分のところである。現在は宮古市に編入されている。

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(写真2 2011年5月10日震災間もないまるで焦土と化した田老)

 震災後初めて訪れた被災地が田老だった。宮古から三陸海岸特有の小さな岬をトンネルで抜けながら田老を眼下にしたときの衝撃は今に至るも忘れられない。町は壊滅していたのである。茫然として、なぜか悔しくて体が震えるようだった。
 私には、被災地に親戚がいるとかそういうことではなかったし、格別のボランティア活動を行っているわけでもなかったが、被災地の様子を伝えることで私なりの復興支援だと思って毎年被災地にやってきた。
 ほぼ毎年同じところを同じように巡っていて、特に田老は必ず訪れていて定点観測を行っているようなものだった。

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(写真3 瓦礫に国旗が……)

 初めて訪れたときは、瓦礫の山だった。いつになったら片付くのか途方もないように思われた。瓦礫には国旗を立ててあるところもあって、聞けば、亡くなった人が見つかったところだということだった。
 鉄骨造の商店だったために、梁にしがみついて難を逃れたという主人は、「真っ黒い波だった。恐かった。助からないと思った」と語りながら、「それでもやっぱり田老がいい」と話していたのが印象的だった。この商店はいち早く復旧していて、瓦礫の中にポツンとついた灯りは、地元の主婦たちにいわせれば「真っ暗な闇に点いた灯りは心強い」ということだった。
 復興は手早くは進まなかった。丘の上にあって被災を免れた役場でお話を伺うと、復興計画をまとめるのが大変だということだった。海辺を離れたくないという人々が多いようで、漁業の町らしかった。
 田老の防潮堤は、高さ10メートルが延べ2.4キロにもわたって二重に築かれていて、これは過去の津波体験から町を守ろうとしてきたもので、地元にとっては〝万里の長城〟といって自慢してきたものだった。それがこのたびの津波はこの防潮堤をあっさり越えて襲来したのだった、それだけではない、防潮堤はまるで小さなブロックのように砕かれて転がされていたのである。唖然とする光景だった。

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(写真4 高台移転した住宅街。まるで大都市近郊のベッドタウンのようだ。2017年6月27日)

 現在は三重目の防潮壁も築かれているし、平地には野球場や商業施設を集め、住宅は高台に移転した。こうした措置は実は被災地の中では早かったもので、その分、復興も早く進んだ。高台に移転した住宅地は規模の大きなもので、まるで大都会の近郊住宅街の様相だった。
 初めて田老を訪れた日、すでに三陸鉄道は北リアス線を走らせていた。三鉄は運行可能なところから復旧を重ねていたのだが、田老の駅で見守っていると、「復興支援列車」がやってきた。鉄道の走ることの心強さを痛いほど感じたものだった。
 三鉄は地震発生からわずか5日後には列車を運行していたし、地元に寄り添いながら、地元の支援を受けながら粘り強く復旧を重ねてきた。北リアス線、南リアス線の復旧が終わったのは2014年4月6日だった。復興のためには一日も早く鉄道を走らせる。その熱意が旧山田線を引き受け、久慈から盛まで163キロもの三セク最長となる長大路線を完全復旧させたのであろう。

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(写真4 田老駅に入ってきた「復興支援列車」。2011年5月10日)

復旧した旧山田線と沿線

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(写真1 復旧した第34閉伊川鉄橋を渡るリアス線列車)

8年目の被災地を訪ねて②

 陸前高田から被災地を北上してきて、釜石から宮古までは三陸鉄道に移管された旧山田線沿線。
 復旧までに8年を要したが、開通してみれば、鉄道の復活は沿線住民が熱望したものであり、復興へ大きな励みとなるに違いない。
 この区間は、震災直後から毎年通ったところ。当時の様子がありありと思い出されるが、鉄道と沿線はどのように変わってきたのか、改めてなぞってみた。

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(写真2 鵜住居駅付近に完成したラグビーワールドカップ会場)

 釜石を出ると、ほどなく鵜住居(うのすまい)。初めて現地に足を踏み入れたときには茫然としたものだった。壊滅していたのである。駅の跡を探しても見当たらなかったし、家の1軒も残っていなかった。
 現在は、立派な駅ができ、周辺には建物も建ってきている。ただ、公共施設が多いようで、一般の住宅は少ないようだった。高台には立派な小学校ができていたし、駅の近所にはラグビーワールドカップに向けて競技場がすでに完成していた。ラグビーの町釜石としてはワールドカップの成功によって復興を一層盛り上げたいところだ。

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(写真3と4 上は2011年5月の大槌、下は2019年3月の大槌=ほぼ同じ場所から撮影したもので、眼下奥が現在の大槌駅付近)

 鵜住居の次は大槌。ここも壊滅的被害が広域に及んだ。町長や町役場の幹部多数が津波にのみ込まれてしまった。
 復興を指揮する町幹部がいなかったのに、沿線自治体の中では復興は早かったのではなかったか。町を見下ろす高台に立つと、復興の様子が手に取るようにわかるようだった。
 駅が再建されたし、駅周辺の開発も進んでいて、新しい住宅街が形成されつつあった。大方の町では、公共施設がいち早く建っても、住宅にまで広がらないところが多いから、大槌の復興はとても特徴がある。
 高台に行くと、町役場や公民館ができていたし、眼下には大槌駅も見えて、町の中心になっている様子だった。

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(写真5と6 上はほぼ壊滅した2011年5月の山田と下は2019年3月開業したばかりの陸中山田駅)

 旧山田線と並行している国道45号線を走っていると、海沿いの町々はどこがひどい、どこが軽いということもなく、一様に津波にやられている。山田町も同様で、高台にあった役場はかろうじて被害を免れたが、近所にあったはずの陸中山田駅は流出した。
 新しい陸中山田駅は、旧駅から数百メートル移動したところに建てられた。とてもしゃれた駅舎で、山田町のコミュニティセンターも兼ねている。駅周辺には災害復興住宅や商店街も形成されつつあるようで、新しい町づくりの中心となる様子だった。

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(写真7 国道45号線沿いに延々と築かれた高さ10メートルもの防潮堤)

 国道沿いには、高さ10メートルほどの防潮堤が延々と築かれている。風光明媚な三陸海岸だが、当然、海は見えない。だから、どうだこうだということではないが。

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(写真8と9 上が津軽石付近を走る下り列車。下は新駅の矢木沢・宮古短大)

 陸中山田を出て豊間根の次が払川。この駅がなかなか見つからなかった。地元の人に尋ねても知らない人が多くて、軽トラックを運転していたお年寄り夫婦に先導してもらってやっとたどり着いた。復旧に合わせて開業した新駅なのである。住宅地のようだが、これからの発展を見込んでいるのだろう。
 さらに一つ津軽石を置いて矢木沢・宮古短大。ここも新駅。周辺は急速に進んできた住宅地のようだった。また、くだんの短大は丘の上に見えた。
 このあたりで宮古方面に向かう下り列車を見かけた。単行だが、鉄路を淡々と列車が進んでくる風景はいいものだ。

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(写真10 2011年5月橋桁が崩落した当時の第34閉伊川鉄橋)

 磯鶏を出ると、国道は直進していくが、線路は左に大きくカーブしながら第34閉伊川鉄橋を渡る。震災で崩落した橋梁である。ちょっと写真撮影のしにくい場所だが、震災の年から毎年この橋梁を観察してきた。それだけにこの橋を実際に列車が渡るのかと思うと感慨深いものがあった。
 橋を渡るともう宮古駅構内である。構内には三鉄の検修場があって、本社もあるし三鉄の中心駅の様子である。また、本屋とは反対側の駅に直結した複合ビルには宮古市役所も移転してきたようで、宮古が駅を中心に展開していく方向が察せられた。

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(写真11 宮古駅に直結した宮古市役所の入ったビル)

8年目の被災地を訪ねて①

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(写真1 陸前高田で14メートルもかさ上げされた台地)

陸前高田から釜石へ

 岩手県の三陸沿岸が北から南まで鉄路でつながった三陸鉄道リアス線163.0キロを通常営業2日目の3月25日に久慈から盛まで一本で乗り通したが、翌26日には、レンタカーで逆コースを北上、東日本大震災8年目の被災地を詳しく巡った。
 震災直後から毎年被災地を訪れて被災の状況と復興の様子を見つめてきていて、いつもほぼ同じところを回ってきたから、言わば定点観測をしているようなことだった。
 特にこのたびは、実際に復旧した鉄道に乗ってみたことと、沿線を自動車に乗ってフォローしたことによって、随分と得がたい体験となったのだった。
 ところで、レンタカーは大船渡からスタートしたのだが、前日にはBRTで陸前高田を訪問していて、実質的な起点としていたのだった。
 陸前高田は、ほぼ壊滅的な被害に見舞われた。これは、リアス式海岸の都市にあって珍しく平野部が広かったからで、このことが津波被害を甚大なものにした。
 復興に際して陸前高田が行った計画は実に遠大。市街中心部を約14メートルの高さにまでかさ上げしたのだ。このために山を一つ崩して、ベルトコンベアで土を運んだのである。数キロに延びたベルトコンベアは陸前高田における復興事業を象徴していた。

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(写真2 台地の上から見下ろすと平地はまるで谷底。被災した4階建てのビルの屋上がちょうどかさ上げ高さである)

 そのかさ上げされた台地に立ってみると、ここがかさ上げされた場所であるとは咄嗟には判断つきかねた。それほど広大なのである。バスが行き交い、大きなショッピングセンターが建っている。
 かさ上げされた台地の縁に立ってみると、かさ上げされた高さと規模が実感できた。まるで谷底をのぞき込むような感覚だった。かつての平地に建っていた4階建てのビルにちょうど高さが相当していた。
 陸前高田の復興工事はまだまだ土木工事の段階。見渡す限り市街地の7割近くでブルドーザーが動いていた。堤防工事はほぼ終了したようで、ここも高さは14メートルになるのであろうか、高い防潮堤がぐるっと街を取り囲んでいた。だから、市街からは海は見えなかった。
 かさ上げされた台地上では、公共施設や商業施設は建ってきているものの、一般の住宅はあまり見かけなかった。
 地元の人たちが何度も議論を重ねて結論を出したはずで、よそ者が軽々しく口を出すことではないが、こうした壮大なかさ上げ以外にほかに有効な震災対策はなかったものだろうかと自問はした。震災後毎年一度以上は必ずこの地を訪れていてそのつどこの考えを強くしたことは確かだ。
 陸前高田をあとに大船渡に向かう途中、国道45号線の沿道に5階建てのアパートがあった。津波で襲われたもので、4階までがぶち抜かれていて、5階だけが被害を最小にとどめていた。わずか1メートルほどの差で天と地が分かれており、地震と違って津波の冷酷な恐さである。震災遺構として遺す予定なのかも知れない。
 大船渡からはレンタカーで移動した。大船渡に入ると、復興工事がぐんと進んでいることが見て取れた。

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(写真3 延々と伸びる大船渡の防潮壁)

 防潮堤の工事はほぼ終了したようだ。高さ10メートルほどの分厚い壁が延々と連なっている。
 街の中心街では、BRT大船渡駅を中心に銀行やホテルが進出していて、飲食店のしゃれた店舗が軒を連ねていた。
 大船渡はもともと海沿いの商業地と、高台の住宅地によってなり立ってきた街のようで、平地に住宅は少なく、住宅は高台を上へ上へと伸びている。

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(写真4 眼下は大船渡駅付近。住宅は山裾の高台へ登っている)

 大船渡からは釜石へ。目抜き通りの商店街も津波の甚大な被害となったのだが、復興はとても早くて、表通りを歩いている限りでは震災の爪痕も感じられなかった。それよりも鉄とラグビーの町らしく、鵜住居のラグビー場で開催されるワールドカップ大会への関心が高まっていた。

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(写真5 震災の爪痕も感じられない釜石市街目抜き通り)

BRTで陸前高田へ

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(写真1 盛駅を発車したBRT=右。左はリアス線車庫)

専用道率向上が課題

 久慈から盛まで三陸鉄道リアス線163.0キロを一直線に乗り通したあとは、引き続き盛からは大船渡線に乗り継いで陸前高田に向かった。
 大船渡線は、盛から一関を結ぶ路線だが、海沿いを走る盛から気仙沼までの区間はBRT(高速バス輸送システム)として運行されている。
  まことに震災の被害が甚大だった区間で、盛から陸前高田まで20.3キロ、駅数7のうち、実に5つの駅で駅舎流出などの被害に遭った。
 再建にあたっては、地元からはあくまでも鉄路での復旧を要望する声が強かったものの、最終的には、復旧が早い、維持費も少ないなどの理由からBRTでの復旧となった。
 盛駅。三陸鉄道リアス線とJR大船渡線BRTとの接続駅で、それぞれ別個の駅舎を構えているが、1面2線の島式ホームは大船渡線2番線、リアス線3番線と同じホームとなっている。なお、本屋側片側1線のホーム1番線は大船渡線の降車専用。
 13時25分発の気仙沼行きに乗車した。当初、12時50分発に乗ろうとしていたのだが、下校中の高校生で満員、とても乗り切れなかった。このバスは途中短絡する区間があるようで、後発に比べ全区間約60分のうち約20分も短縮されるようだから人気があったのだろう。

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(写真2 大船渡線BRTの大船渡駅)

 盛を出ると大船渡などと大船渡湾の西岸を走る。大船渡湾は湾が深く、天然の良港であることがわかる。ただ、このことが津波被害を大きくしたのだが。
 大船渡は大船渡市の中心だが、高台はともかく平地の部分は津波で壊滅した。かつて鉄道駅のあった同じ場所にBRTの駅が設けられている。JRはあくまでも鉄道と同じ扱いで、路線名がそのままなほか、停留所も駅と呼んでいて、基本的には同じ場所に設置してある。

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(写真3 専用道を走るBRT)

 しばらく専用道を走っている。線路の路盤をそのまま整地して舗装したもので、踏切(交差点)もBRT優先になっていて、BRTが近づくと遮断機が上がる。
 BRTは運行時間が実に正確で、ほぼ鉄道と同じダイヤで走っている。ただ、専用道の割合いはまだまだ低くて、専用道比率は37%ということである。市街地に入ると一般道路を走る場面が増えるからどうしてもこうなる。ただ、JRでは専用道比率の向上を目指していて、早晩43%まで高めたい計画である。専用道比率が高まれば、無人化自動運転の可能性も出てくるから重要である。
 BRTになって駅も増えたし、路線にも柔軟性があるから、通学の高校生や通院や買い物のお年寄りには好評のようだ。また、鉄道駅と違ってバリアフリーであることも大きなメリットであろう。
 陸前高田市街に入ると、建設機械が一挙に増えた。復興工事の真っ最中である。市街中心部を14メートルもかさ上げしようというという壮大な工事で、すでに整地も終わって共用されているところでは、知らなければここが嵩上げされたところだとが気づかない。それほどに広大でもある。
 大船渡線BRTの陸前高田駅は、かさ上げされ商店街が建ち並ぶ新市街中心にあった。立派な駅舎があり、BRTの発着するホームも設けられていた。また、駅舎内にはみどりの窓口なども設けられており、鉄道駅と何ら変わらない。

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(写真4 大船渡線陸前高田駅。まるで鉄道駅のような立派さ)

三セク最長久慈-盛間163キロ

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(写真1 久慈駅で購入した久慈発盛行ききっぷ。戻ることはできないが片道で途中下車が可能なきっぷである。3,710円)

三陸鉄道リアス線全線乗り通す③

 釜石を出ると旧南リアス線区間となる。乗客の多くは釜石で下車してしまいやや空いた。
 この区間は海沿いは短かったので津波被害は比較的少なくて済んだ。ただ、吉浜-唐丹間で橋梁が流出したし、甫嶺では線路が流出するなど駅周辺は被害が甚大だった。
 列車は淡々と走ってきていて、乗っているだけでは震災を感じないでしまいかねない。

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(写真2 恋し浜駅の待合室には貝殻による絵馬がたくさん捧げられていた)

 恋し浜。ここでしばし停車。かつて小石浜といっていた駅で、改名して俄然人気が出た。ホームの小さな待合室には神棚が祀られ、貝殻の絵馬が多数供えられていた。
 陸前赤崎で大船渡湾に出た。頭に中に描いた地図では想像しにくいが、ここから大きく右に回り込みながら盛へと向かう。この駅の周辺も津波被害の大きかったところで、待合室もホームも新しくなっていたし、付近には住宅も建ちはじめていた。

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(写真3 盛駅に到着した久慈発のリアス線列車)

 そうこうして盛到着。12時28分。リアス線163.0キロの終点である。久慈から延々と4時間23分を乗り通した。しかし、車窓は豊かだし、うとうとすることもなく楽しいものだった。なお、旧南リアス線区間としては36.6キロ、駅数は10である。
 久慈から同じボックス席で一緒だった、おじいちゃんと小学校高学年とおぼしき男の子の孫も乗り通した。この二人とは久慈のホテルでも一緒だったのだが、東京からわざわざ来たとのこと。おじいちゃんは鉄道ファンだったようで、孫に細かく解説していた。とてもほほえましく、羨ましいようなことだった。
 また、同じように久慈から乗り通してきた客は見渡すと7、8人ほどいたようで、仙台から来たという男性は、車両派なのか、車両についてものすごく詳しくてびっくりするほどだった。
 鉄路による路線はここまで。この先大船渡線はBRT(バス高速輸送システム)に転換されており、鉄路としては途切れた。
 山田線もJR東日本から当初BRTでの復旧が提案されていたが、沿線自治体や住民は断固鉄道の復旧を望んでいた。
 復旧してみれば、やはり鉄路によるインパクトが大きくて、復興を加速させるものとして期待される。ただ、鉄道の維持費はBRTに比べ断然大きく、そうでなくても過疎化が進んできた地域だけに、この先の難問は小さくはない。

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(写真4 リアス線車両が留置されている盛駅構内の様子)