ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

境線で行く地蔵崎と美保関灯台

f:id:shashosha70:20171007185812j:plain

(写真1 美保関灯台。手前の建物が現在はビュッフェになっているかつての吏員退息所)
島根半島 岬と灯台巡り②
 島根半島の西端にある出雲日御碕灯台を見学した翌日は半島東端に位置する地蔵崎の美保関灯台を訪ねた。
 岬への起点は米子駅。山陰本線の主要駅であり、伯備線の列車もここが発着。岬へはここを起点とする境線でまずは境港駅を目指す。境線は0番線が通常は使用番線だが、乗ろうとしている列車に限り4番線からの発車。鳥取始発だからで面白い運用だ。4両と長い編成だったから0番線は使えなかったのかもしれない。もっとも、同じボックス席になった高校生は倉吉から乗ってきたと言っていたから通しの利用者もいるのである。
 10月2日月曜日。7時50分の発車。境港行き。ディーゼルカーである。通学中の高校生や通勤者で満席。しばらく乗降を繰り返し立っている人たちも少なくない。女生徒はセーターやカーディガンを着ているものが多いし、男子生徒もジャケットを着用している。もう衣替えがあったのであろう。
 列車は弓ヶ浜半島を北上している。この半島は中海を左に、右は日本海(美保湾)に面した細長い半島で、全長は約17キロ、幅も約4キロしかない。全体が砂嘴なようで、そのせいか高い山がまったく見えず標高は低い。半島は島根半島に突き当たるように伸びている。
 細長い半島を走っているのに車窓左右いずれにも海が見えてこない。これは意外。途中に米子空港駅があった。全線17.9キロに駅数は16と多い。だから駅間距離が短く頻繁に停車する。駅間距離が1キロに満たない区間が6箇所もある。海も見えないしやや退屈な路線である。
 その退屈を紛らわし面白いのは駅名の愛称。漫画家の水木しげるが境港の出身だから『ゲゲゲの鬼太郎』の登場キャラクターが愛称に使われていて、駅名標のほかに、ホームには愛称の漫画が描かれた看板が立っている。米子駅は「ねずみ男」といった具合である。
 そうこうして終点境港8時39分着。愛称は「鬼太郎」である。この町では世界妖怪会議なるものまで開催されているらしい。
 境港駅が近づくにつれ山峡が迫ってきていたが、行き止まりの終着駅の改札口から通りに出ると、眼前が境水道である。満々と水をたたえた大河のようにも見えるが、中海と日本海を結んでいる。対岸までわずか数百メートルであろう。なかなか位置づけが難しいが、中海が汽水域であるため海峡とは呼ばないようである。
 この水道が鳥取、島根両県の県境で、手前境港側は日本海で名だたる漁港であり、貿易港であり、工業港でもある。こうした施設が水道に面しずらり並んでいる。全長は8キロにも及んでいる。
 さて、境港からはレンタカーを利用した。すぐに境水道大橋を渡った。鋼材がふんだんに使われた立派なトラス橋である。この大橋の中央径間は240メートルとあったからこれがほぼ境水道の幅ということであろう。
 大橋を渡って島根県側に入るともう島根半島である。海岸沿いの道を進むと10分ほどで美保関の漁港に出た。帰途立ち寄ったのだが、ここには美保神社があり、その脇には緑の石畳が敷かれた美しい小道があってとても風情のあるものだった。

f:id:shashosha70:20171007185913j:plain

(写真2 展望台から見た地蔵崎と美保関灯台)
 このあたりはすでに地蔵崎の付け根にあたっていて、すぐに登り坂となりほどなくして美保関灯台に到着した。駐車場から緩やかな坂を登っていくとすぐに展望台があり、地蔵崎の突端にある美保関灯台が見渡せた。
 背は高くなくややずんぐりしているが白い石造の美しい灯台だ。灯台守の官舎だったかつての吏員退息所も現存しビュッフェとして活用されておりとても風情がある。岬好き灯台ファンならずとも一級の観光資源ではないか。世界灯台100選および日本の灯台50選に選ばれている。
 この日は生憎と雨だったのだが、見晴らしのいいことはわかる。ただ、残念だったことは隠岐の島が見えなかったこと。説明板によれば、島前は50数キロ沖合らしい。
 そう言えば、私はこの灯台を訪ねたのは3度目だが、そのすべてが雨だった。特に4年前の2013年9月7日に訪れたときは大嵐だった。
 この灯台の素晴らしさはいくつもあるのだが、その一つが灯台全体の佇まいであろうか。灯台そのもののほか吏員退息所も残っている。そういうことでか、灯台としては初めて国の登録有形文化財に指定されている。吏員退息所そのものは全国の灯台で幾つか見ることができるが、公開されていてもその大半は灯台資料館となっている場合が多く、ビュッフェというのは珍しい。

f:id:shashosha70:20171007190001j:plain

(写真3 日本海に向けて大きく張り出した灯台ビュッフェの窓)
 ビュッフェに入ると、海に向けてガラス窓が大きく張り出している。見事な眺望で、晴れていればコーヒーなど飲みながらいつまでも思いにふけっていたくなるようだった。おそらく時間の経つのも忘れてしまうのではないか。
 館内には、初代のものだというレンズが展示してあった。明治31年の初点灯で、当時は地蔵崎灯台と称していて、大きさは内径1.84メートル、高さ2.59メートル、フランスバビエル社の製作といったようなことが解説してあった。なるほど、岬名と灯台名が違っていたのは近年のことで、当初は一致していたわけだ。
 灯台の位置はかなり高い。灯火標高が82.91メートルということからも察しが付く。ちなみに灯高は14.00メートルである。灯質は単閃白光、46万カンデラ、光達距離が23.5海里(約43.5キロ)となっていた。位置は北緯35度33分51秒、東経133度19分41秒である。
 雨だったから、岬周辺を歩きまわることははばかられたので詳しいことはわからなかったが、地蔵埼の突端そのものはさほど大きくも鋭くもなさそうだった。
 いずれにしても、島根半島には西端の出雲日御碕灯台、東端に地蔵崎美保関灯台と魅力的な灯台が構えてあるものだと感じ入った次第だった。しかも、その二つともに、日本に5つしかない世界灯台100選に入っているのである。

f:id:shashosha70:20171007190119j:plain

(写真4 海側から見た灯台と灯台ビュッフェの建物)

日本一背の高い出雲日御碕灯台

f:id:shashosha70:20171006113709j:plain

(写真1 すらりと日本一背の高い白亜の出雲日御碕灯台)
島根半島 岬と灯台巡り①
 先週は出雲に旅行した。島根半島の岬と灯台巡りが楽しみ。
 島根半島とは、日本海に面し東西に長く横たわる半島で、南側は宍道湖であり中海である。東西に65キロ、南北はところにより10キロに満たなく、西の端が日御碕で東端は美保関の地蔵崎である。うっかりするとおよそ半島らしくないし、私に言わせれば半島性が弱いということになるが、しかし、帰路、出雲空港を飛び立った機内上空から見たところでは、半島はまるで細長い海の中道のようにも見えたのだった。また、半島は高山もなく、全般に丘陵地帯のようで、標高もせいぜい数百メートルではないか。
 日御碕灯台へのバス便は非常に悪くて、日中はわずか3本しかない。そのうちの1本を使って10月1日出雲大社バスターミナル10時37分発に乗った。日曜だったせいもあってか乗客は10人ほど。途中で降りた者は誰もいなくて全員が終点まで乗っていた。約20分。
 日御碕灯台の停留所は駐車場になっていて、50台ほども自家用車がとまっていた。ナンバープレートによると、さすがに東日本はいなかったが、宮崎や高知などと西日本各地の車が見られた。出雲大社とセットの旅行者なのだろうが、なかなかの人気ぶりではある。駐車場の周辺には土産物屋が数軒あった。
 灯台は駐車場から坂道を数分下ったところにあるが、すぐに灯台のてっぺんが見えてきた。何しろ背が高いのである。
 その灯塔の高さ43.69メートルは日本一ということで、白くすらりとして実に美しい。しかも石造だからなおさら優美で、これほど美しい灯台もないものだ。日本の灯台50選ばかりか世界の灯台100選ともなっている。
 周囲は荒々しい岩盤で、海岸段丘であろうが、それが海蝕されている。水深があるのか岩礁は見えていない。海縁に建っていて、灯火標高が63.30メートルとあるから、灯高を引くと標高はわずかに20メートルしかない。海際に建ち背の高い白い灯台ということでは本州最東端三陸海岸魹ヶ先灯台が印象を似せている。

f:id:shashosha70:20171006113813j:plain

(写真2 灯台は鉄製のらせん階段で登ることができる)
 灯台は、内部に登ることのできる参観灯台。ただ、他の大方の灯台がコンクリートのらせん階段が一般的であるのに対し、ここは鋼鉄製の階段がスパイラル状に上へと伸びている。靴を脱いで上がるというのも珍しいが、ともかく階段は狭く上り下り行き違いのたびに踊り場でよけて待たなければならない。この場合、下りが優先である。
 バルコニーに出ると一気に眺望が開ける。灯塔の高いことが実感できる。若い女性達が下を見てこわいといって騒いでいた。この日は曇っていたから鉛色の海が広がるだけだが見晴らしのいいことはわかる。左右に海岸線が連なっており、私の尺度でいえば両手を広げてちょうどだから180度の眺望か。風は弱かった。
 灯台は日本に5つしかない第1等レンズを持ち、実効光度が48万カンデラ、光達距離は21海里(約39キロ)とある。レンズをしたから見上げると、ガラスが幾層にも重なり合っているのが見て取れた。なお、レンズの下部には「ドーナツ状の容器の中には320㎏の水銀が満たされいます。大きなレンズを浮かべ回転させています」と解説してあった。座標は灯台の位置で北緯35度26分02秒、東経132度37分45秒である。
 初点はいつかと探すと、プレートが見当たらない。それで、入館のチケットを取り扱っていた女性に確認すると、階段の登り口の頭上にあったのだった。灯塔の外壁周りに据え付けてあるのが一般的だからこれは面食らった。プレートには「初點明治三十六年四月一日」とあった。114年の歴史である。
 足下は岩肌がむき出しになって断崖となっている。ただ、灯台は日御碕の突端に建っているわけだが、灯台周辺からは左右後背を見回しても岬としての形状がつかめない。だから、岬としての魅力には乏しい。岬に向かうバスは100メートルほども登ってきたから大きな岬であろうことは想像がつくが。なお、途中、麓の岬の付け根には日御碕神社があった。
 ところで岬名であり灯台名である碕という字。崎や埼と同じ意味だが、碕の付く灯台は日本でここだけである。また岬名にも碕が使われており、岬名は岬や崎であっても、灯台名には埼を用いる場合が多いから、このことでもここ出雲日御碕灯台は独特である。岩盤の印象が強かったから石偏の碕を当てたのかもしれない。なお、『日本地名大百科』で調べてわかったが、地名でも碕の付くところは鳥取県に一箇所あるだけである。

f:id:shashosha70:20171006113857j:plain

(写真3 日本に5つしかない第1等フレネルレンズを下から見あげたところ)
 

中村元『水族館哲学』

f:id:shashosha70:20170929145301j:plain

独自視点で水族館の魅力掘り起こす
  著者は水族館プロデューサー。サンシャイン水族館などを手がけたらしい。
 その水族館を知り尽くした著者が、全国の主だった水族館を紹介しているのだが、その視点が極めて独特。それは、水族館は単に子どもの教育や魚マニアのための場であることを超えて、生きるための癒しであったり教養や好奇心を満足させる場であり、今や大衆文化の場だと展開している。
 そういう視点で選ばれた水族館を幾つか拾ってみよう。まず、サンシャイン水族館では従来のペンギン展示の常識を覆しており、草原のペンギン、天空のペンギンなどとペンギン本来の野生の形を生き生きと見せているし、名古屋港水族館ではマイワシのトルネードが、躍動感ある芸術のような輝く水塊が魚ではなく命を見せる新時代の展示となっているなどと紹介している。
 そして本書の特徴は、全国の水族館をあたかもガイドブックのように羅列しているのではなく、我が国における水族館の歴史を踏まえ、水族館運営の独自性や社会性といったことにまで踏み込んで言及していることであろう。
 そして何よりも本書の魅力は、文庫という小さな判型ながら全ページカラーグラビアとなっており、水族館の美しさが読んで楽しいことだ。
 著者ならずとも、本書を読めば必ずや水族館に行ってみたくなる、そのような本だった。
(文集文庫)

八甲田丸の車掌車

f:id:shashosha70:20170928160352j:plain

(写真1 八甲田丸の船内に保存されている車掌車ヨ6798)
シリーズ車掌車を訪ねて
 青森駅で連絡橋を渡っていると、長いホームの先に並行するように大きな船が見える。かつての青函連絡船八甲田丸で、現在はメモリアルシップとして海上博物館となっている。
 かつての青森第二岸壁に係留されていて、現在はホームから直接渡ることはできないが、構内の外側に連絡通路が設けられて、周辺全体が青い森公園となっている。

f:id:shashosha70:20170928160446j:plain

(写真2 旧青森第二岸壁に係留されているメモリアルシップ八甲田丸)
 八甲田丸は、最終就航が1988年3月13日で、青函連絡船としての最終航行船でもあった。全長132メートル、総トン数5、382トンで、旅客定員が1、286名、積載車両は48両であった。
  明るい黄色と白に塗色された船体で、船内は4階から地下1階までの甲板となっている。4階のブリッジや地下1階のエンジンルームも公開されている。
 車両甲板は1階で、3本の線路が敷かれ、びっしりと車両が積み込まれていた。この中には北海道で特急として使用されてきたキハ82101気動車やDD1631ディーゼル機関車、郵便車スユニ50509なども見えた。
 車掌車はヨ6000形のヨ6798で、ヘッドマークが付けられ、車両甲板への出し入れに使われた控え車ヒ600形が連結されていた。ヨ6798は、1962年製造、自重9.0トンと解説があった。
 なお、ヨ6000形は、全般にヨ5000形やヨ8000形に比べ保存車両数が少ないから貴重な存在だ。

f:id:shashosha70:20170928160601j:plain

(写真3 1階にある車両甲板の様子)

東京湾の玄関観音崎灯台

f:id:shashosha70:20170928135448j:plain

(写真1 東京湾を照らす観音埼灯台)
三浦半島 岬と灯台巡り②
 剱埼灯台に続いて観音埼灯台を訪ねた。
 京浜急行を三浦海岸駅から堀ノ内駅まで戻り、乗り換えて浦賀駅で降り立った。なお、品川方面から来て堀ノ内-浦賀間はわずかに3.2キロ、間に二駅があるだけの短い区間だが、京浜急行線としてはこちらが本線であり、堀ノ内から三浦海岸を経て三崎口駅へと至る区間は久里浜線である。
 浦賀は造船の街。新造船からは撤退したようだが、駅前のすぐその目の前に今でも造船所の建屋が連なっている。実に狭い港町である。
 京急バス観音崎行きに乗車すると、わずか18分で到着した。住宅地が奥へと伸びている様子で、周辺は公園になっていてバスの便数も多い。
 バス停から岬の縁を海岸沿いに良く整備された遊歩道がぐるっと回り込んでいて、途中から立て看板に従って急な階段を150メートルも登ると灯台に達する。バス停からは20分ほどだった。
 観音埼灯台。全国に数多くある灯台の中でも最も有名で親しまれている灯台の一つではないか。日本で初めての、つまり日本で最も古い洋式灯台である。
 剱埼灯台もその一つだが、幕府が欧米列強と結んだ条約灯台8つの一つで、ここ観音埼灯台が最初に完成した。フランス人技師フランソワ・レオン・ウェルニーが担当した。明治政府が建設を引き継ぎ1869年完成、初点は2月1日である。なお、着工した1868年11月1日は灯台記念日となっている。灯台の位置は北緯35度15分22秒、東経139度44分43秒である。
 関東大震災による被害等があり現在の灯台は3代目だが、さすが風格が感じられる。初代は煉瓦造だったらしいが、現在の灯塔はコンクリート造で白色八角形である。灯高が19メートルで、灯火標高は56メートルとなっていて、さほど大きくはないがすっきりとした形の美しい中型灯台である。

f:id:shashosha70:20170928135604j:plain

(写真2 観音埼灯台上から見た東京湾。対岸は房総半島)
 しかし、見晴らしは抜群にいい。灯台内部に登ることのできる参観灯台で、展望デッキに立つと、東京湾が眼下に一望できる。東京湾に鋭く突き出ていて、眼前の浦賀水道はまことに狭く、その幅はわずか10キロに満たないといわれる。
 この狭いところを東京湾に入ってくるすべての船舶が通過するわけだから、世界でも有数の交通量となっている。大型タンカーや貨物船に巨大な自動車運搬船も行き交っている。漁船も多く、中には潜水艦がチラッと上部をのぞかせているのも東京湾らしいところ。潜水艦の前を露払いの小型船が先導している。
 目を対岸に向ければ、この日は晴れているもののくっきりとはしていないが、左に富津の製鉄所が見える。正面に白く見えるのは東京湾観音であろう。
 剱埼灯台が対岸の洲崎灯台と結ぶラインが東京湾の地理上の入口ということになろうが、観音埼灯台はまさしく東京湾の玄関ということになる。

f:id:shashosha70:20170928135824j:plain

(写真3 遊歩道から見た観音崎と灯台)

浦賀水道の入口剱埼灯台

f:id:shashosha70:20170901105723j:plain

(写真1 三浦半島の東南端に立つ剱埼灯台)
三浦半島 岬と灯台巡り
  先日のこと、三浦半島の岬と灯台巡りを楽しんだ。何度も行っているしわざわざ出かけるほどの距離でもないが久しぶりではあった。
 三浦半島は東を東京湾、西を相模湾に面し、東京から電車で1時間ほどのところ。東京や横浜に向けた宅地化が進み、逗子、葉山、横須賀、城ヶ島などと観光地も多く、古くから開けた地域である。
 半島は、対岸の房総半島に比べればさほど大きなものではないが、人口は60万人ともいわれ、歴史とロマンに溢れていて、そして何よりも画然とした半島性つまり半島としての形状的独立性も高く、豊かな海岸線を持っており個性ある岬と灯台が大きな魅力となっている。
 8月28日。初めに向かったのは剱崎。京浜急行で品川から特急電車で約1時間半。終点三崎口の一つ手前三浦海岸が最寄り駅。この日は平日の午前だったが電車はほぼ10分間隔である。やはり大都市圏である。
  駅前から京急バスに乗車。すぐに三浦海岸に出たが、よく知られた海水浴場である。夏を惜しむかのようにまばらな海水浴客がいた。海岸を離れ丘に登っていくと約20分で終点剱崎。ちなみに沿道は砂地の畑が多かった。かつては三浦大根が有名だったがこの頃はどんな作物が多いものか。
 運転手さんに灯台への道順を尋ねると、信号を左折すればあとは道なりだという。なるほど、その通りに進むとすぐに灯台の上部が見えてきた。どこまで進んでも住宅が点在している。さすがは三浦半島である。

f:id:shashosha70:20170901105829j:plain

(写真2 灯台の上部。第二等フレネル式レンズ。実効光度48万カンデラ、光達距離約32キロ。灯質は毎30秒に白2緑1閃光の複合群閃である)
 高みに達するといきなり灯台が眼前にそびえ立った。剱埼灯台である。ここまで徒歩で18分。岬としての剱崎は突端に向かっているという印象が途中までなかったが、灯台に着くといかにも劈頭に立つという爽快感があった。
 剱埼灯台は、真っ白な六角形の塔形で、コンクリート造でなかなかがっしりとしている。灯高が16.9メートルありなるほど大型灯台だ。平均海面から灯火までの高さを示す灯火標高も41.1メートルもある。そのせいか、足下を洗う波浪の音が届かなかった。もっとも、この日は風もないほどに弱かったから波も静かだったのかもしれない。
 三浦半島の東南端に位置し、眼前は浦賀水道であり、房総半島の洲崎灯台と結んで東京湾の入口となっている。座標は灯台の位置で北緯35度08分25秒、東経139度40分38秒である。
 剱埼灯台は、いわゆる条約灯台の一つである。つまり、幕末に欧米列強と結んだ江戸条約で灯台の設置を約束した八つの灯台の一つだが、なるほど、突端に立つと灯台の必要性がわかるようだった。初点は1871年(明治4年)1月11日で、設計はブラントンだった。石造だったという初代は関東大震災で倒壊し現在の灯台は再建された二代目。
 多数の船舶が往来しているが、雲がかかっていてくっきりとは行かなかったが対岸に長く横たわるように房総半島が見えた。ただ、400ミリの望遠レンズを向けたがいい写真にならなかった。正面は金谷か勝山のあたりであろうか。構内に設置されていた灯台を紹介する表示板によれば、晴れていれば伊豆大島や新島、さらに伊豆半島までも展望できるということである。
 ただ、灯台を取り囲むように背は低いものの樹木が茂っていてところどころで眺望が遮られていたのが残念だった。この樹木をもう少し剪定して見晴らしを確保すれば、岩礁に砕け散る激浪が足下を洗う様子や、断崖絶壁の先端に立つ爽快感が味わえたのではないか思われた。この日は平日でもあったからかほかに訪れている人もなく閑散としていた。

f:id:shashosha70:20170901105915j:plain

(写真3 海側から見た灯台全景)

画期的なクローン文化財

f:id:shashosha70:20170929103700j:plain

(写真1 クローン文化財として再現された法隆寺釈迦三尊像)
藝大が失われた刻の再生
 上野の藝大美術館で、シルクロード特別企画展「素心伝心-クローン文化財 失われた刻の再生」と題する一風変わった展覧会が開催されている。
 会場に入ると思わずびっくりする。何と法隆寺金堂の釈迦三尊像が鎮座しているではないか。しかし、この仏様は門外不出なはずなのにと不思議に思うと、実はこれが釈迦三尊像のクローン文化財だったのである。
  クローン文化財とは、東京藝術大学が開発した技術によって高精度に複製された文化財のことで、藝大では最先端のデジタル技術などを駆使し、絵の具などの成分や表面の凹凸、筆のタッチまで忠実に再現しており、原本と同素材、同質感であるだけでなく、技法から文化的背景、精神性など芸術のDNAに至るまで再現することで文化財のクローンを生み出している。
 これによって、保存と公開という両立の難しい文化財の課題を解決することに成功しており、国際社会からも大きな期待が持たれている。
 今回公開されているのはこうしたクローン技術で再現された文化財で、金堂の仏像ばかりではなく壁画もあり、さらに敦煌莫高窟の仏像などとシルクロード各地の文化財が含まれている。
  金堂に入ってみよう。まず、釈迦三尊像が出迎えてくれる。中尊の何と慈しみのあることか。実際の金堂よりやや明るいか。そのためか子細に見ることができる。やや面長の特徴ある顔立ちが優しげだ。金堂には何度も通った。立ち去りがたい有り難みをそのつど感じていたものだが、このたびのクローンはじっくり見るということでは最適だ。私の記憶の限りでは古色ぶりも質感も含めて寸分違わぬ複製ぶりだ。

f:id:shashosha70:20170929103759j:plain

(写真2 金堂壁画もクローン技術で複製された)
 周りには壁画が張り巡らされている。これもクローン文化財だという。実際の金堂では薄暗くて壁画の細部にまでは目の行き届かないことがしばしばだから、このクローンを見て感心した。そうすると壁画は何と色彩豊かだったのだ。しかも、現在の壁画は火災によって焼損しているのだが、複製された壁画は焼損前のオリジナルが再現されているのだった。
  展示室内には、お経が流れ、お香の香りまで漂っていて、なかなか凝った演出だった。
  次からは、シルクロード各地のクローン文化財が展示されていた。敦煌莫高窟があり、キジル石窟があった。バーミヤンではクローン文化財にも興味深かったが、破壊された暴挙にも改めて心を痛めたし、こうした失われてしまった文化財にもクローン技術は適用できるようで、これは大きな技術だと感心したのだった。

f:id:shashosha70:20170929103945j:plain

(写真3 台座から天蓋などに至るまで復元された釈迦三尊像の全体)